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智能は幼児期に言葉に依って創られる

長崎市五島町にある幼児教室・学習塾の羅針塾では、小学校受験に向け準備をしようと考えておられる親御さんから様々な質問を受けます。子供さんの教育にしっかりとした考えをお持ちの方は少数派です。子育てや教育に対する様々な悩みや不安の元は、耳に入る情報が錯綜し、いずれを取るべきか確信が持てないことが原因です。

現在は、教育に対する情報がインターネットにも百花繚乱と言える程溢れています。簡便に情報を集めることが出来るのは有り難いのですが、其の中から適切で有意義な情報を収集し、分析し、活用するのは、自らの立ち位置をしっかり維持しておかない限り、混乱の元にもなりかねません。

最新の教育理論や動向は、しっかりと検証されるまでに時間がかかり、安易に取り入れる事は、後で悔やむことになりかねません。

筆者は、海外の教育理論や動向などの最新情報にも目を通しますが、「教育は百年の大計」と言われるように、日本の歴史の中で検証された教育と日本文化に根差した、正に日本人に適した教育があると信じます。

そこで、よく引用させて頂く石井勲の著書から、「漢字興国論」(1997)をご紹介します。

「漢字興国論」 第二章 漢字は世界で最も高度な文字――真に文字と言へるものは漢字だけである――

智能は幼児期に言葉に依って創られる

従来「智能は生れつきに依る」と考へられてゐましたが、近年は「幼 児期に創られる」それも「言語によって創られる」といふ考へが強まって 来ました。

フランスの言語心理学者ポール・ショシャールは、フランスの小学校 に就学してゐる黒人の子供たちの生育歴を 1 人 1 人丹念に調査しまし た。そして「アフリカで生れ、そこで幼児期を過した子供たちの智能は、 フランスの子供たちの智能より明らかに低いが、アフリカで生れてもフ ランスで幼児期を過した千供たちの平均IQは、フランスの子供たちの 平均 IQ に劣らなかった」といふ事実を明らかにしました。

右の事実は「智能は生れつきに依らない。幼児期に創られるものである」ことを教へてくれます。また、「智能は幼児期の言語活動に依って 創られる」ことを推測させてくれます。ではなぜ「智能は幼児期に言語 に依って創られる」のでせうか。

 人間の大脳はよくコンピューターに譬へられます。然し、似てはゐても、大変な違ひがあります。コンピューターは初めからハードウェアの 容量が決ってゐて、それに見合ったソフトウェアしか入力できません。 いくら立派なソフトウェアを作っても人力できないのです。

これに対して人間の大脳は、人力されたソフトウェアに依ってハード ウェアはいくらでも容量が大きくなるやうに準備されてゐるのです。つま り、ソフトウェアが立派になればそれに従ってハードウェアも大きくなる のです。そして大きくなったハードウェアが更に立派なソフトウェアを入 力し易くする、といふやうに相互に影響を与へ合ひながら発達して行く のです。

所で、人間の大脳は二十歳頃までにハードウェアの発達を終へます が、幼児期の発達が特に目覚しく、この時期に成人の大脳の 60 から 70 パーセントまで発達し、小学校に入学する 6 歳頃には 80 パーセントま で発達するさうです。既に述べましたやうに大脳のハードウェアとソフト ウェアとは相互に影響し合って発達して行くものですから、幼児期の大 脳の使ひ方で決ったハードウェアの容量の大小に依ってその後の発 達が左右されるのです。大脳のソフトウェアは言葉が基幹ですから、 「幼児期に吸収する言葉の質と量に依って智能が決定する」のは当然 だと言へませう。

・・・「幼児期に吸収する言葉の質と量に依って智能が決定する」という言葉は、非常に含蓄があります。

「言葉の質」は、美しい日本語、「言葉の量」は、正しい日本語、によって担保されます。外来語や和製英語的なカタカナ混じりの日本語を、どれだけ入れても、本当の智能の発達には寄与しない、と考えます。

 

 

posted by at 14:35  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

自学自習の力

長崎市五島町の幼児教室・学習塾の羅針塾では、塾生の将来を見据えながら日々の学びを指導します。

幼児さんであれ小学生であれ(むろん、中学・高校・大学生も)、将来自ら人生を切り開いて行く力を身につけていかなければなりません。

其の為の第一歩が、自ら学び、自ら習う「自学自習」する力を、如何に早くみにつけていくか、です。

産経新聞(2020.6.23)の記事にも、15歳対象の国際学力調査を踏まえて以下の記事がありました。引用してご紹介します。

【風を読む】自学自習力を高めたい

https://www.sankei.com/life/news/200623/lif2006230010-n1.html

 20、21日の土日、高校生らがインターネットのテレビ会議システムを使って社会問題などについて考えるイベントを見る機会があった。日本財団が支援する団体「i Stand」の活動の一環で、グループに分かれ話し合い、小学生にも分かる動画教材をつくる企画だ。コロナ禍の中、「他人の意見を聞く機会」の重要さを語る高校生もいて印象深かった。

15歳対象の国際学力調査などを行っている経済協力開発機構(OECD)の担当者はコロナ禍の以前から、ネット社会での学びの変化について指摘していたので、改めて紹介したい。かつての勉強法は、分からないことがあれば、専門知識を持った人が書いた本を読んで調べた。それがいまネット検索で手軽にできる。しかし、その情報が本当に正しいのか、吟味する力が必要になっているという。

そうした批評的思考は、日本の弱点とされる。OECDの学力調査の一環で、他人といかに協力できるかチームで連携する力を調べたことがある。3人一組で役割分担する想定で、他人の誤りなどに適切な助言ができるかなどだ。日本の生徒はルール違反を指摘して修正できるかみる設問で正答率が低く、他人に迎合する傾向が出た。

オンライン授業以前に、自学自習の力を見直したい。日本の学生の勉強不足が指摘されて久しい。欧米に比べ、日本の学生が課題図書を読む量など授業の準備に充てる時間は極めて少ないといわれる。1日の読書時間が「ゼロ」という学生が過半数に上る調査もあった。異論、反論はチームで解決していく力につながるが、確かな知識、教養に根ざした意見を持てるか。自ら学ぶ力が問われている。

・・・「批評的思考は、日本の弱点とされる。」と記事にありますが、外国人と議論する場合は別として、一般の日本人同士では、「批評的思考」は寧ろ無遠慮として忌避される傾向があるように思います。所謂、揚げ足を取らないのが礼儀とされているからです。

丁々発止するディベイト(debate*)の場では、「批評的思考」がなくては議論になりません。

以下Wikipediaからの引用です。

ディベイト(debate)とは、ある公的な主題について異なる立場に分かれ議論すること(広義のディベイト(debate))。様々な教育目的のために行われる教育ディベート(educational debate)が、単に「ディベート」と呼ばれることもある(狭義のディベート)。

尚、日本における本格的な教育ディベートは、福沢諭吉によって初めて日本にもたらされたとするのが定説である。福澤は「debate」の訳語に「討論」という日本語を当て、日本に広く普及させるとともに自ら実践した。明治6(1873)年に福澤が行った日本初の教育ディベートの論題は「士族の家禄なるもの、一体プロパーチーであるか、サラリーであるか」だったとされている。討論は、この頃から学校教育で課外活動として位置づけられはじめ、旧制中学においても1877年頃から各種の討論会が行われはじめる。こうした教育ディベート活動は、1897年以降には多数の理論書も出版されるなど隆盛を極める。

・・・日本における教育ディベートは、歴史を振り返ると福沢諭吉を嚆矢(こうし:ものごとの初め)として、其の素地はしっかりとあります。従って、しっかりとした指導者が導いていけば、日本人が外国人とのディベートに劣る事はない筈です。

当然、ディベートをする前提としてしっかりとした語彙力がなければなりません。それを幼い時から一つづつ身に付けていく必要があります。其の為には、子供さんに「言葉の意味合い」を理解させていく普段の努力が親御さんには必要です。

言葉の意味合い」をひとつづつ理解した子供さんは、物事に興味を持ち、知識欲が芽生え、更に知りたいという学びに対する欲求が出てきます。そうすると、最初は親御さんにしょっちゅう尋ねていたレベルから、導きによって自ら学ぶことを覚えていきます。

自学自習の力は、導きと訓練(繰り返し)によって獲得していきます。

 

posted by at 12:40  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

もしも20年後の子供に会ったとしたら

現在、子育て真っ最中のお母さん方が、もし20年後の子供さんに会うことを想像してみたら、子育ての意味合いを理解できるのではないでしょうか。

これは、筆者の子育て(否、家内が主で)経験から考えさせられることです。

最初の子供を持った時の、感動、戸惑い、不思議さ、等々、それぞれの親御さんが感じるものが、子育ての始まりです。

「這えば立て、立てば歩めの親御心」

これは、筆者の母親が子供時分に諭してくれた俚諺(りげん:民間で言い表されている諺)です。幼い時分から、事あるごとに問わず語りに語っていた言葉の数々が、年を経るごとに思い起こされます。

不思議なことに、子供の頃の一場面一場面がふとした時に蘇るのは筆者だけでしょうか。

間違いなく、子供さんも日々の中で、様々な思いを紡いでいきます。

楽しいこと、悲しいこと、悔しいこと、ワクワクすること。

その度に、話すことができれば、まず第一にお母さんに話すでしょう。

そのような日々を、一年365日繰り返していきます。

そして、成長していく中で、子供心にお母さんの存在は一見小さくなっていきます。それが、いずれ親離れし、成人していく。

人間がこの世に生まれてから、営営と続けてきたことがこれからも続いていきます。

 

・・・子供の為に良かれと思い、叱ることもあり、日々悩むのが子育てです。

そんなときに、20年後の立派な男性、女性になっている将来の子供さんに、もしタイム・マシーンに乗って会うことが出来れば・・・

どれ程楽しく、嬉しいでしょうか。

「楽有れば苦有り、苦有れば苦有り」と、繰り返し繰り返し呟いていた母の姿が思い起こされます。

 

posted by at 16:14  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 27 ジャヤワルダナ大統領 3

ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ氏以外にも、様々な人の証言もあります。

「インドとスリランカにいる兄弟・姉妹に呼びかけます」

 1932(昭和7)年にコロンボに生まれ、スリランカ独立後に海 軍兵学校部隊長となったソマシリ・デヴェンドラ氏は、次のよ うに語っている。

 1941年に日本が真珠湾を攻撃し、第2次大戦に参戦した 時には、スリランカ人は日本に対してある種の同情を寄せ ていました。・・・  1942年の初め、強力な日本海軍はインド洋上の敵艦をど んどんと破壊していき、スリランカ島に向かっていきまし た。しかし、その時にスリランカに停泊していたイギリス 軍艦の多くは第一次世界大戦当時に造られた古いものばか りでした。  

4月、日本海軍の航空隊はスリランカの都市を空襲し、 それらの軍艦に攻撃をしかけてきました。この航空隊は真 珠湾攻撃に参加した後にやって来た隊でした。日本軍の爆 撃の命中率は世界で最も正確だったと言われています。  

この空襲の際に、3人が乗った日本軍の攻撃機1機が墜落し た。コロンボのカテッナ市営墓地には、墜落死した日本兵の墓 が造られている。  

日本軍はシンガポールを占領した後、投降したインド兵を集 めて、インドの独立を目指すインド国民軍を組織させた。その 中にはスリランカ人の部隊もあった。  

インド国民軍はシンガポールからインドやスリランカに向かっ て「ラジオ昭南(シンガポール)と呼ばれるラジオ放送を行っ た。  

当時12歳だったデヴェンドラ氏は、このラジオ放送をよく 聞いていた。「こちらはラジオ昭南、インドとスリランカにい る兄弟・姉妹に呼びかけます」という言葉で始まり、「ワン ・デイ・マータラ」という、今でもインドでよく知られている インド国民軍の歌を流した。  

アメリカの情報機関は、このようなインド向けの放送が、イ ンド人の心理に与えた影響は非常に大きかったとしている。

 

・・・「日本が悪かったという史観」からすると、上述の様なお話は都合の悪いことになります。しかし、欧米諸国から隷従されていたアジアの人々からすると、自分たちと同じ有色人種である小さな国の日本が、支配している強大な白色人種の国を打ち破ることは、まるで我が事のように快哉を叫びたい出来事だったのでしょう。

「私達は日本に、このことを感謝しなければなりません」

日本が敗戦した日は「Victory over Japan Day(対日勝利の 日)」と呼ばれ、大きな都市では記念式典が開かれた。

デヴェ ンドラ氏が住んでいたラトゥナプラでも式典が開かれ、イギリ ス側代表の後で、氏の父親がスリランカ側を代表して演説を行っ た。  

この日は、私達が日本に対する勝利を祝うものです。し かし、私達は日本によって得られたものがあります。それ は愛国心という心でした。それは、日本によって全てのア ジアの国々にもたらされたのでした。

 戦争によってアジアの国々、インドネシアやインド、ス リランカ、ビルマなどは自らに対する自信と民族主義の意 識を得たのです。私達は日本に、このことを感謝しなけれ ばなりません。

「対日勝利の日」に、英国側の前で、日本に感謝する演説を行 うとは、まことに大胆な言動である。それだけ強い気持ちが籠 もっていたのだろう。  

1948年2月4日、スリランカは独立を果たした。

日本が設立 を支援したインド国民軍の指導者たちをイギリスが「反逆者」 として軍事裁判にかけようとした事に対して、インド全土に暴 動、ストライキが広まり、それがきっかけとなってインドは独 立を勝ち得た。それとともに、イギリスはスリランカからも撤 退したのである。  

昭和天皇のお召し艦を一目見ようと港に駆けつけた少年ジャ ヤワルダナが、独立政府の要職についていた。そしてサンフラ ンシスコ講和会議で日本を擁護する演説をすることになる。  日本は明治以降、スリランカの人々の独立への希望に灯を点 してきたのだが、今度はそのスリランカが日本の独立を助けて くれたのである。

・・・日本人にとって感動するお話です。我が国の将来を担う子供達には、是非聞かせてあげたいものです。

posted by at 09:00  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 27 ジャヤワルダナ大統領 2

さて、日本が大東亜戦争(世界の視点では第二次世界大戦)後に、独立を果たし国際社会に復帰するきっかけとなったスリランカのジャヤワルダナ代表のお話の続きです。

 

「講和条約アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊厳のため」

講和条約への賛成を表明した後、ジャヤワルダナ代表はその 理由を述べた。  

アジアの諸国民が日本は自由でなければならないという ことに関心をもっているのは何故でありましょうか。それ は日本とわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、 アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり日本を 保護者にして盟友として見上げていた時に、アジア隷従人 民が日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります。

 私は、アジアに対する共栄のスローガンが隷従人民に魅 力のあったこと、そしてビルマ、インド及びインドネシア の指導者のあるものがかくすることにより彼等の愛する国 々が解放されるかも知れないという希望によって日本人と 同調したという前大戦中に起こった出来事を思い出すこと ができるのであります。

「共栄のスローガン」とは、日本が大戦中に唱えた「大東亜共 栄圏」のことであり、実際に欧米諸国の植民地支配からの独立 を目指す国々の代表が東京に集まって、「大東亜会議」が開催 されている。  

さらにビルマ、インド、インドネシアでは、日本が支援して 設立された独立軍が、これらの国々の独立戦争に大きな役割を 果たした。  

ジャヤワルダナ代表は、日本に対する賠償請求権を放棄する、 と続け、その理由として、仏陀の「憎悪は憎悪によって消え去 るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」を 引いた。

『サンフランシスコ・エグザミナー』 紙は「褐色のハンサムな外交官が、セイロン島よりやって来て、 世に忘れ去られようとしていた国家間の礼節と寛容を声高く説 き、鋭い理論でソ連の策略を打ち破った」と評した。  この後、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアを除く49カ 国が講和条約に署名し、翌年4月28日、日本はついに独立を 回復したのだった。

・・・当時の日本国民からすると、アジアの国とはいえ遠く離れたスリランカの外交官が何故日本を擁護するのだろうかと思ったことでしょう。

それはスリランカの歴史を紐解くと、その理由の一端が分かります。

  スリランカとは「光り輝く島」という意味で、その美しい豊 かな自然から「インド洋の真珠」とも呼ばれてきた。北海道の 8割ほどの国土に、現在では2千万人の人々が住んでいる。  

紀元前5世紀に北インドから移住したシンハラ人が王国を作 り、紀元前3世紀に仏教が伝わると、それ以降、現在まで仏教 国として信仰を守ってきた。  

しかし、スリランカはインド洋交易の重要拠点であり、その ため、早くから西洋諸国の侵略にさらされた。1505年にポルト ガル人がやってきて、約150年間、沿岸部を支配した。1658 年からは今度はオランダが替わって約140年間、植民地支配 を続けた。さらに1796年にはイギリスが支配者となり、全島を 支配下においた。  

イギリスは、スリランカ全島を紅茶の生産基地とし、米まで 輸入しなければならない状態にしてしまった。独立を求めて大 規模な反乱が三度起きたが、いずれも武力鎮圧された。  

イギリスは南インドから移住してきた少数派のタミル人を優 遇し、彼等を教育して役人とし、多数派のシンハラ人を治めさ せた。この巧妙な分割統治が、現在も続く民族闘争の原因となっ た。  同時にキリスト教徒を優遇し、仏教を抑圧した。シンハラ人 のほとんどは仏教徒で、教育を受けることも難しかった。

・・・第二次世界大戦前の欧米列強諸国が、世界中に植民地を持ち、それらの国々の国民は過酷な植民地支配の下に置かれていたのは、今では考えられません。

イギリスの敷いた「分割統治」の爪痕は、スリランカが独立した後も「スリランカ内戦」(1983〜2009)として、スリランカ政府とタミル・イーラム解放の虎(LTTE)との間の激烈な争いが26年も続きました。

因みに、

分割統治(Devide and conquer 分断統治ともいう)」とは、ある者が統治を行うにあたり、被支配者を分割することで統治を容易にする手法。

被支配者同士を争わせ、統治者に矛先が向かうのを避けることができます。統治者が被統治者間の人種、言語、階層、宗教、イデオロギー、地理的、経済的利害などに基づく対立、抗争を助長して、後者の連帯性を弱め、自己の支配に有利な条件をつくりだすことをねらいとし、植民地経営などに利用されたものです。

19世期以降の欧米諸国の植民地経営は、この原理をよく応用しました。

イギリスはインドなどアジア諸国で、人種、宗教、地域の差異で分割した集団を互いに反目させることで長期の統治に成功しました。ミャンマーの少数民族問題長期化も英国の分割統治がビルマ族を抑圧して少数民族を優遇したことに始まります。更に、ビアフラ戦争もイギリス植民地時代の分割統治による東部のイボ族と北部のハウサ族との部族対立が最大の原因です。

またベルギーやドイツは、ルワンダ・ブルンジにおいてフツ族とツチ族に格差をもうけ、少数派のツチを中間的な支配層としました。これがルワンダ虐殺の遠因となったともいわれています。

 

「アジアを救うことこそ日本の役割」

イギリスの植民地支配のもとで衰退した仏教を再興しようと 19世紀末に立ち上がったのが、スリランカ建国の父と呼ばれ るアナガーリカ・ダルマパーラであった。  

敬虔な仏教徒の家に生まれたが、当時のキリスト教の強い影 響で、聖書にちなんだダビッドという名をつけられていた。し かし仏教再興運動を進める中で、自ら「アナガーリカ(出家者) ・ダルマパーラ(法の保護者)」と名乗ったのだった。  

ダルマパーラは仏教の縁で、明治22(1889)年2月に初めて 日本を訪れた。おりしも大日本帝国憲法発布式が行われており、 ダルマパーラは近代日本の胎動を目の当たりにした。  

ダルマパーラは明治25(1892)年に2回目、明治35(1902) 年に3回目の来日を果たした。3度目の来日の2か月前、日英 同盟が結ばれており、ダルマパーラは「欧米人のアジア人に対 する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるア ジアを救うことこそ日本の役割なのだ」と語っている。  

その2年後、日本は大国ロシアに対して戦いを挑み、これを 打ち破った。日本の勝利にスリランカの人々は熱狂した。ダル マパーラも「こんな素晴らしいことはない。皆さんは気づいて いないかも知れないが、皆さん日本人によってアジアはまさに 死の淵から生還したのだ」と語っている。

「次に生まれるときには日本に生まれたい」

3度の来日で、日本の驚異的な発展を目の当たりにしたダル マパーラは、シンハラ人の自立のためには技術教育が欠かせな いと考え、日本に留学生を派遣する財団を設立した。  

大正3(1913)年、ダルマパーラは最後の訪日を行い、帰路、 満洲と朝鮮も訪れた。日本はこれらの地に惜しみない資本投下 を行って、急速に近代化を進めていた。ダルマパーラは「日本 が2、3年の内にこの地で完成させたことを、イギリスがイン ドで行ったならば優に50年を要していただろう」と、植民地 を搾取の対象としかみないイギリスとの違いを指摘した。  

ダルマパーラの活動によって、仏教に根ざしたシンハラ人の 民族主義運動が高まっていった。イギリスの植民地当局はこれ を警戒し、おりから発生した暴動の首謀者としてインドで5年 間もダルマパーラを拘束した。弟も捕らえられ、半年後に獄死 した。それでもダルマパーラは運動をやめず、昭和8(1933)年、 69歳でスリランカ独立の日を見ることなく、生涯を終えた。 「次に生まれるときには日本に生まれたい」とよく話していた という。

 

・・・戦後70年以上も、日本は「侵略戦争」を起こし、「アジア諸国を植民地支配しようとした」などといったことが当然の様に学校現場で教え込まれてきています。

しかし、良識あるアジアの指導者達は、客観的に事実に基づき日本を評価していました。その一例がスリランカのお話です。

皇太子のお召し艦を一目見ようと胸を弾ませて港に赴いた少年

1921(大正10)年3月、日本の巡洋艦『香取』がスリランカ を訪れた。当時、皇太子であった昭和天皇をお乗せして、ヨー ロッパに向かう途上であった。 皇太子のお召し艦を一目見ようと港に集まった人々の中に、 一人の少年がいた。15歳のジャヤワルダナであった。  

ジャヤワルダナは、昭和54(1979)年、国賓として来日した 際に、宮中の歓迎晩餐会にて次のように語っている。

 外国の統治の下では、人々の信仰や言葉、慣習などはほ とんど消え去りそうになっていました。  このことから、私達だけではなく、西欧の帝国主義の下 で同じような運命によって苦しんでいる全てのアジアの国 民達は日本を称賛し、尊敬していたのです。先の80年の 間、日本はアジアにおいて独立国として立ち上がっていた のです。  西欧の列強が、その軍事力と貿易力によって世界を支配 していた時に、あなた達は彼等と競い、匹敵し、時には打 ち負かしていました。  陛下が1920年代に皇太子としてスリランカを訪れた 際には、私は気持ちを高ぶらせて陛下が乗船されている艦 を一目見ようと港に行ったものでした。  

当時の日本は、日英同盟のもと、第一次大戦をイギリスと共 に戦って勝利し、世界の強国として頭角を現しつつあった。自 分たちと同じアジア民族で、かつ共に仏教を信奉する日本の皇 太子が、自国の巡洋艦で対等の同盟国であるイギリスに赴くと いう出来事は、「自分たちもいつかは独立を」という希望をス リランカの人々に抱かせたに違いない。

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