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教科書に載らない歴史上の人物 26  高木兼寛

武漢発のコロナ・ウィルスの日本国内感染者が徐々に増えつつある中で、クルーズ船内や密室空間での感染の恐怖を味わうのは、底知れぬものがあることと思います。

同様に、日本の歴史の中で疾病の原因が分からず、治療法が無いと思われていた国民病・脚気についても克服するまでには多くのドラマがあります。

再々参照させていただいている「国際派日本人」養成講座 「軍医・高木兼寛 海軍を救う」(http://blog.jognet.jp/202002/article_4.html)と、「宮崎県郷土先覚者 高木兼寛」(https://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/kenmin/kokusai/senkaku/pioneer/takaki/index.html)からの引用です。

高木兼寛(かねひろ)はペリー来航を直前に控えた江戸末期、薩摩藩領の日向国穆佐村白土坂(むかさむらしらすざか/現・宮崎市高岡町穆佐)に生まれました。

武士の子として、幼少期から学問や剣術を学ぶ一方で、父・喜助の手伝いで大工仕事にも精を出します。当時の薩摩郷士は、武士としての俸禄だけではなく、耕作や大工仕事などの副業で生計を立てるのが一般的でした。

その後兼寛は地元で敬愛されていた医師の黒木了輔にあこがれを抱き、医学の道を志します。17歳になると鹿児島に出て、石神良策に医学を学びます。2年後の1868(明治元)年には戊辰戦争が始まり、兼寛も薩摩藩九番隊付として上京します。

当時の藩医たちは、戦闘による傷の手当てに不慣れであったため、西郷隆盛が英国領事館の医師、ウィリアム・ウィリスに依頼し、負傷者の治療にあたらせます。ウィリスは麻酔を使った手術や消毒処置によって、多くの兵士を救います。この光景は、若い兼寛に大きな刺激となったことでしょう。

会津戦争後に帰郷した兼寛は、鹿児島医学校に赴任してきたウィリスと再会し、改めて英語と医学を学びます。その後、海軍省出仕を経て3年後の1875(明治8)年、ロンドンのセント・トーマス病院医学校に留学します。

同医学校ではさまざまな医科学を学ぶと同時に、ナイチンゲール看護婦学校を見聞するなど、英国医学の特徴であった「臨床医学」や「看護婦養成」などを身につけます。兼寛が残した言葉「病気を診ずして病人を診よ」の精神も、この時期に身についたのかもしれません。

同校を首席で卒業した兼寛は、帰国後すぐに東京海軍病院長に任ぜられます。

英国留学中の高木兼寛 出典東京慈恵会医科大学

 

日本海軍に衝撃を与えた脚気患者の大量発生

明治15(1882)年の京城事変では、朝鮮宮廷のクーデーターで日本大使館も襲われ、政府は邦人保護のために軍艦5隻を仁川沖に派遣しました。それに対抗して清国も戦艦3隻を派遣して、睨(にら)み合いとなりました。

 この時、日本の五隻の軍艦内では多数の脚気(かっけ)患者が発生し、死亡する者もいました。もしも清国軍艦と交戦状態となったら、日本の各艦には戦闘に応じる人員はわずかで、たちまち危機に瀕することはあきらかでした。日本側はこのような事態を清国側に気付かれないよう、元気な水兵を集めて艦上でしきりに訓練させました。

 脚気は心不全により、足のむくみ、しびれが起き、最悪の場合は心臓発作を起こして死亡に至ります。江戸時代の元禄年間には江戸で大流行をしたため「江戸わずらい」と呼ばれ、激しい脚気が流行した京都では、短期間に死ぬので「三日坊」とも言われました。欧米にはない病気で、明治9(1876)年に来日して東京帝国大学医学部で教えていたドイツ人医師ベルツは黴菌による伝染病と考えていました。

 明治天皇は皇后とともに軽い脚気に罹(かか)られた事があり、内親王のお一人を脚気で亡くされている事から、脚気専門病院の設立をしてはどうか、と政府に伝え、破格の金額を下賜されていました。政府も予算を投じ、明治12(1879)年に脚気病院が設立されましたが、有効な治療法が見いだせませんでした。

 海軍病院の軍医・高木兼寛(かねひろ)は、毎日、脚気患者に接していたことから、なんとしてもこれらの患者を救わねばならないと、自らこの大問題に取り組むこととしました。

 改めて記録を調べてみると、明治11(1878)年には海軍の総兵員数4,528名のうち、脚気患者は1,485名、32.8%にも上っていました。これではいくら最新鋭の軍艦を揃えても戦えません。京城事変での危機的状況は、今に始まったことではなかったのです。

脚気栄養説の実証実験に使われた軍「筑波」 出展東京慈恵会医科大学

国民病・脚気との闘い

海軍軍医大監に任ぜられると、脚気についての調査に乗り出します。兼寛はその原因として、患者のいない英国海軍ではパンや肉など、たんぱく質の多い食事を摂っていたのと比較して、白米中心の日本食がその原因ではないかと考えたのです。

脚気とは末梢神経に障害を与え、下肢のしびれやマヒを引き起こし、ひどくなると死亡することもある病気です。富国強兵策を唱える明治政府にとって脚気は、兵力安定のための懸案事項のひとつとなっていました。

ちょうどその頃、太平洋横断の練習航海中の軍艦「龍驤」で、376名の乗組員中、169名の重症脚気患者(25名死亡)を発生させ、ハワイのホノルルにたどりつくという事件が発生しました。

龍驤はハワイ停泊中の食事を、米食から肉・野菜に変更したところ患者は快方に向かい、帰国することができました。このことは兼寛の仮説を補強する出来事でした。

脚気栄養説を確信した兼寛は、兵食改善を明治天皇に奏上。練習艦「筑波」に改善食(洋食)を搭載し、龍驤と同じコースをたどらせます。その結果、肉やミルクを嫌った者以外に患者なしという結果が出ました。その後海軍食は、主食をパンから日本人にも食べやすい麦飯に変え、脚気患者が激減します。

一方、ドイツの「研究室医学」が主流の東京大学と陸軍では、衛生学教授の緒方正規が「脚気病菌」の発見を報告したり、ドイツ留学中の軍医・森林太郎(のちの鴎外)が「日本兵食論大意」を著すなど、兼寛の栄養説を批判します。

海軍の栄養説と陸軍の伝染病説とは、長年に渡って論争を繰り広げますが、その結果として、日清戦争での陸軍の脚気患者は34,783名(死亡者3,944名)、日露戦争では実に211,600名の患者が発生し、27,800名もの兵が亡くなりました。一方海軍では、合計で患者約40名、死者は1名と決定的な差が生じます。

このような事実にも関わらず陸軍では、伝染病説を捨てませんでした。

しかしフンクによるビタミンの発見、マッカラムによる脚気予防因子ビタミンBの発見により、栄養説が実証されることになるのです。

 

・・・当時の日本の陸軍と海軍、医学会を二分する論争は夙(つと)に有名です。

細菌説の中心にあって白米供給にこだわっていた森林太郎(鴎外)は、日露戦争後、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長と軍医のトップに登りつめました。しかし、同様のキャリアを積んだ人々が男爵、子爵に補せられているのに、森にはついにその声があがりませんでした。

一方、高木兼寛は、東京帝国大学と陸軍からの厳しい敵視を浴びつつも、明治天皇が自分を認めてくれているという事を心の支えに、屈辱に耐えました。そして生前に男爵に補せられ、大正9(1920)年の逝去の日には従二位に叙されました。

彼の業績は欧米では遙かに高い評価を与えられました。コロンビア大学やフィラデルフィア医科大学から名誉学位を送られました。ビタミン発見の歴史において、高木兼寛は先駆的な業績をあげた研究者として顕彰されています。

日清・日露戦争と多くの脚気による死者を出しながらも、保身のために細菌説にこだわった陸軍中枢部に対し、ひたすら兵員の命を救うために、自らの命をも掛けた航海実験を敢行した兼寛に、歴史は最後には正当な評価を与えたのです。

因みに、高木兼寛は医師としての功績のみならず、語学は無論、軍人(海軍軍医総監)、経済人(帝国生命保険会社創設)、経営者(病院や医学校の経営)、教育者(成医会講習所など)、政治家(貴族院議員など)、開拓者(北海道夕張郡開拓事業)、芸術家(書跡の達人)、宗教家などさまざまな顔を持つ、多芸多彩の人であったのです。

東京慈恵会講習所の卒業生に囲まれた兼寛 出展:東京慈恵会医科大学

教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳4

日本の歴史の中でも、江戸幕末から明治維新にかけては約百五十年ほど前の話ですから、現在の私達からすると3〜4世代前の曽祖父かその前の世代の話です。しかしながら、遠い昔のように感じられるのは、その頃の日本人の精神の強さと比し、現在の私達の精神の相対的なひ弱さ故なのでしょうか。

さて、教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳3https://rashinjyuku.com/wp/post-category/schoolmaster/からの続きです。「少年日本史」(平泉澄著 皇學館大学出版部)p.611からの引用です。

何故に井伊大老がこれを死刑にしたかと云えば、井伊は徳川幕府従来の體制(たいせい)を頑固に維持して行こうと考え、家康以来、天下の政治は、朝廷より御委任を受けて、幕府の専決する所であって、國を鎖すか開くかも、將軍の後嗣ぎに誰を選ぶかも、全て幕府の権限に属し、今更朝廷の思召(おぼしめし)をうかがう必要もなければ諸藩の意志を聞こうとは思わない、そして幕府に於いて之を判断する者は、御三家御三卿(ごさんけ・ごさんきょう)でも無ければ、親藩でも無く、將軍の高級幕僚たる溜(たまり)の間詰(まづめ)の譜代大名のうち、選ばれて大老たり、老中たる者に限る、もともと井伊はその高級幕僚の筆頭であり、そして今や大老として將軍代行の地位に在る、井伊を差措(さしお)いて、國家の重大時に嘴(くちばし)をさしはさむ者は、朝廷の重臣であろうとも、御三家であろうとも、その僭越(せんえつ)は咎(とが)められねばならぬ、まして陪臣(ばいしん:江戸時代直臣(じきしん)の旗本・御家人に対し諸大名の家臣)たる者が越権にも何をいうのだ。

かような考(かんがえ)によって、橋本景岳は斬られたのでありました。

勘定奉行(かんじょうぶぎょう)水野筑後守(みずのちくごのかみ)は之を見て、「井伊大老が橋本左内を殺したるの一事、以て徳川氏を亡ぼすに足れり」と云いました。

人は、それぞれ其の行為の責任を取らなければならないのです。伊井は、また幕府は、やがてその責任を取るでしょう。然しその前に、今一人の惜しむべき犠牲者、吉田松陰に就いて語らねばなりません。

 

・・・ブログの文章にしては、つい長くなってしまう所以(ゆえん:謂れ、理由)が、この平泉澄先生の名調子にあります。

中・高校の教科書にもこのような名調子、博識を披露してもらうようなものがあれば、誰一人授業中に眠るものがいない筈です。

教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳3

人生において、人を尊敬したり人に師事する際に、自分自身より年齢の高い人は多くあれど、年下の人を敬したり、重んじて意見を聞くというのはなかなか出来ないことです。歴史上の人物について学ぶときに、故事(昔から伝えられているいわれや物語)が残されていると、想像上のイメージが豊かに膨らんできます。

さて、教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳2からの続きです。「少年日本史」(平泉澄著 皇學館大学出版部)p.608からの引用です。

景岳は西郷隆盛をたずねて、國家の重大事に就いて協力を求めました。西郷は七つ年上である上に、體格(たいかく)も雄大でしたから、景岳が身長も低く、痩せて色白であるのを見て、初めは之を軽んじていましたが、一たび其の説を聽(き)くに及んで悉(ことごと)く感激し、全面的に之に追隨する事を約束しました。

景岳は川路(かわじ)左衛門尉(さえもんのじょう)をたずねました。川路は當時最も識見あり氣骨あり勢力ある幕府の奉行でした。それ故に景岳を引見するに當って、初めは頗(すこぶ)る横柄でした。いよいよ其の説を聽(き)いては、大いに驚歎(きょうたん)し、翌日人に語って、「昨日橋本に會ったが、自分の身體(からだ)を半分切取られたような氣がした」と語ったといいます。

それでは其の、西郷を心服せしめ、川路を屈服せしめたところの、景岳の國難打開策は、どういう内容であったか、

「少年日本史」(平泉澄著 皇學館大学出版部)p.608

(一)外交問題。

鎖國という事は、もともと道理にもかなわず、その上今日の情勢では不可能に屬(ぞく)する故、斷然(だんぜん)國を開いて、世界萬國(ばんこく)と交易し、忠孝仁義の教えは、自ら固く之を守ると共に、外國にも之を教え、その代りに物質文明、精密機械は外國より採入れるが良い。いよいよ開國となれば、外交方針を立てなければならないが、その爲には世界情勢、此の先き、どう動くかを見極めなければならぬ。

自分の考(かんがえ)では、將來國際連盟が出来て萬國(ばんこく)手をつなぎ、戦争を止める方向へ進むであろうと思われるが、その場合、國際連盟に指導的位置を占めるものは、先ずイギリス、もしくはロシア、この二つの内であろう。さて日本はどうすれば良いかと云うに、孤立する事は危険である。もし孤立したいとならば、朝鮮、満州、沿海州を併合し、更にアメリカ、もしくは印度に植民地をもつ必要があるが、西洋諸国がすでにこれらの地方を占領している以上、是は今日不可能に属する。孤立は危険であるとなれば、どれか一國と同盟するが良い。その同盟の相手國としては、イギリスか、ロシアかが考えられるが、もし日英同盟が出来る時は、必ず日露戦争が起こり、逆に日露同盟が出来れば、當然日英戦争が起きるであろう。國を開く以上、それまでの見通しと覺悟とが必要である。

・・・橋本景岳は、若干二十六歳のときまでに、つまり日露戦争(1904)の約四十五年前には、日英同盟(1902)と併せて、先見(将来のことをあらかじめ見通すこと)していたのです。現在の情報が錯綜する時代と比べ、限られた情報の中で、見透す力を自ら課した学問を通して身に付け、時の幕府や諸藩の指導的立場にあるものに説いていたのです。

(二)将軍後嗣(あとつぎ)の問題。

開國はやがてイギリス又はロシアとの一線を覚悟しなければならぬとすれば、それは國家浮沈の一大事である。從って政局の擔當(たんとう)者である將軍には、國體に明らかであって対局の判斷を誤らない英明なの人物を選定しなければならぬ。今問題となっている候補者二人に就いて云えば、慶喜(よしのぶ)はすでに二十歳を越え、家茂(いえもち)はまだ十歳を何程も越えていない。且つまた其の人物を見るに、慶喜は水戸の流れを汲んで英明である。よろしく調停にお願いして、慶喜を將軍の後嗣とするよう御沙汰を拜(はい)するが良い。

・・・後の歴史の妙からすると、橋本景岳の読み通りになっていると云えます。維新前の将軍慶喜の動きと薩長の動きには、手に汗を握る攻防があります。

政治の大改革。

ゆくゆくは一戰を覺悟しての開國であるから、政治機構をを今まで通りにしているわけにはゆかぬ。内務大臣としては水戸斉昭(みとなりあき)、越前慶永(えちぜんよしなが)、薩摩の島津齊彬(なりあきら)等、外務大臣としては肥前の鍋島齊正(なりまさ)、その下の局長としては川路(かわじ)左衛門尉(さえもんのじょう)、岩瀬肥後守(いわせひごのかみ)等、有名達識(ゆうめいたっしき:広く知られていること、物事の全体を見通す、優れた見識。達見。)の士は之をひろく天下に求めて、内務、外務に分属せしめるが良い。京都の守護職としては尾張の慶恕(よしくみ)、鳥取の池田慶徳(よしのり)、その次長としては彦根の井伊、大垣の戸田。蝦夷(北海道)の長官としては宇和島の伊達宗城(むねなり)、土佐の山内豊重(とよしげ)。

この陣容ならば、愉快に改革が出来るであろう。その上、ロシア、アメリカより御傭教師(おやといきょうし)として各方面の専門家五十人ばかり招き、學校を立て、生産を講ずるが良い。

・・・御傭教師(おやといきょうし)として各方面の専門家五十人ばかり招き、はまさに明治新政府が実行したことです。また、各雄藩の大名も橋本景岳が人格識見を見抜いて、配置してはどうか、と提言しています。明治新政府の各省の大臣からすると、人物の格が相当上ですから、もし実現していたら、と興味深いものがあります。

 

景岳の雄大なる國策には、一點(いってん)の私も無く、また何一つ頑固な所もありません。しかるに景岳は、この國策をひっさげて、朝廷に説き、幕府に説き、諸藩に説いた爲に罪せられたのです。

 

・・・4へ続く。

小学校・新学習指導要領 2020年4月から全学年で実施

武漢発のコロナウィルスが大問題となっています。その対応には子供さんをお持ちの各ご家庭で真剣に対策を講じる必要があります。

然は然りながら、教育の世界では、2020年4月から先ず小学校から新学習指導要領による学習が、全学年で一斉に始まります。新学習指導要領により、学習内容に伴って教科書も授業も全て変わることになります。

そもそも学習指導要領とは、小学校・中学校・高等学校でどの教科の授業を何時間行い、児童・生徒が何を学ぶかを規定する、カリキュラム(教育課程)の基準となるものです。概ね、十年ごとに改訂されます。社会の移り変わりによって、教育も変えていく必要があると考えられているからです。

参照:文部科学省ホームページ(https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1383986.htm)

●実施スケジュール

小学校・・・2020年度全学年実施。

中学校・・・2021年度全学年実施。

高等学校・・・2022年度全学年実施。

●問題点

新旧学習指導要領が入れ替わる学年(小学校では2020年春の新小学2〜6年生)は、慣れ親しんだ学習の仕方が途中で切り替わり、混乱が生じることです。それに備えて移行措置が実施されますが、最低限のカリキュラム調整に留まります。しかし、英語や実技系教科では、それぞれの学校の裁量で「先行実施」も行われるので、学校の取り組み方如何で当座「格差」が出てくる可能性は否めません。

●新学習指導要領の理念ー「社会に開かれた教育課程」

現代の子供達は、学校で習った知識だけで充実した社会生活を営むことは難しくなりつつあり、知識が日々更新されていく中で生きていく力が必要です。その「生きる力」を育むために、学校教育と社会の関わりをこれまで以上に深めていくことを、新学習指導要領は目指しています。

資質・能力の三つの柱として、

1. 生きて働く知識・技能の習得

2.   未知の状況にも対応できる思考力・判断力・表現力の育成

3. 学びを人生や社会に生かそうとする学びに向かう力・人間性の涵養

を示し、「何ができる様になるか」「何を学ぶか」「どの様に学ぶか」を「社会に開かれた教育課程」で導こう、ということです。

 

・・・少なくとも、従来の学習指導要領の目標としていた「知識・技能」は、新学習指導要領ではあって当然というスタンスに立ち、新・教科書で示す問題をきっかけに「知識・技能」をどう用いるか、というレベルを目標としている様です。

また、

授業が変わるー児童の「主体的・対話的」力を引き出し、「深い学び」へ。

各教科の「見方・考え方」を身に付けること。・・・・・と導く意図のようです。

● 新しい教科書は?

1. 豊富な学習量は変わらない。ープラス、「学び方」を盛り込む。

2. 学び方を教科書が示す。ー 教科書を基軸とし、100%習得できるように。

3. 学びと日常生活・現実の社会を結びつける。ー教科間の垣根を超えての学び。

4. 教科や学年を超える「学びのつながり」を示す。

5. デジタル教科書の存在感ー QRコード教科書の各所に配置→インターネットを活用して教科書の理解を高める。例えば、英語の教科書では、可視画像、動画を見ながら自学自習もできる。また、算数の計算問題は、教科書の問題数以上に練習したい場合に、QRコードから教科書の出版社のインターネット上のサイトで多くの問題にアクセスできるようになり、自ら積極的に多くの計算問題を練習することができる。

・・・なかなか前向きな「新学習指導要領」です。

上記の、「2. 学び方を教科書が示す。ー 教科書を基軸とし、100%習得できるように。」は、小学校で教科書を軽んじているかのような授業をしている例を見ているだけに、賛成です。また、「5. デジタル教科書」は、「QRコード教科書の各所に配置」されていることを、活用できるよう家庭でも毎日しっかり復習すると効果的な学びになることでしょう。

要参照:各教科書の出版社のサイト

例、東京書籍(https://www.tokyo-shoseki.co.jp)、光村図書(https://www.mitsumura-tosho.co.jp)、教育出版(https://www.kyoiku-shuppan.co.jp)、啓林館(https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/index.html

 

教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳2

前ブログの教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳1に記載している「啓發録(けいはつろく)」について、分かり易い解説がありましたのでご紹介します。wikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/橋本左内からの引用です。

橋本景岳は、

7歳で漢籍・詩文と書道を、8歳で漢学を学び、生涯を通じて学問武道に励んだ。左内が15歳の時に著した『啓発録』に、後年、序文を記した矢嶋皞(やじまこう)によれば、当時の橋本左内は、学友が激論しているときも常にうつむいて行儀よく座り、皆の話を黙って聞いているような少年で、自分の学才を表に出さず、沈思黙考しているような人物だった。『啓発録』は、左内がそれまでの生き方を省み、その後の生き方の指針として5項目を定め、著したものとされる。

●  去稚心(稚心を去る。) :  目先の遊びなどの楽しいことや怠惰な心や親への甘えは、学問の上達を妨げ、武士としての気概をもてないので、捨て去るべき。

● 振気(気を振う。) :  人に負けまいと思う心、恥を知り悔しいと思う心を常に持ち、たえず緊張を緩めることなく努力する。

● 立志(志を立てる。) :  自分の心の赴くところを定め、一度こうと決めたらその決心を失わないように努力する。

● 勉学(学に勉む。) :  すぐれた人物の素行を見倣い、自らも実行する。また、学問では何事も強い意志を保ち努力を続けることが必要だが、自らの才能を鼻にかけたり、富や権力に心を奪われることのないよう、自らも用心し慎むとともに、それを指摘してくれる良い友人を選ぶよう心掛ける。

● 択交友(交友を択ぶ。) :  同郷、学友、同年代の友人は大切にしなければいけないが、友人には「損友」と「益友」があるので、その見極めが大切で、もし益友といえる人がいたら、自分の方から交際を求めて兄弟のように付き合うのがよい。

 

・・・更に、「益友」の目安について

 

  • 厳格で意思が強く、正しい人であるか。
  • 温和で人情に篤く、誠実な人であるか
  • 勇気があり、果断な人であるか。
  • 才知が冴えわたっているか。
  • 細かいことに拘らず、度量が広い人であるか。

 

・・・と、述べています。友人選びについて「朱に交われば赤くなる」と筆者も母親から常々戒められていましたから、此の「益友」の目安は共感を覚えます。また、逆の立場からすると、自らが友人に対し、此の目安に足り得るか、と自問しなければなりません。

 

さて、教科書に載らない歴史上の人物 25 橋本 景岳1からの続きです。「少年日本史」(平泉澄著 皇學館大学出版部)p.607からの引用です。

然るに時勢の切迫は、景岳の明道館に専念するを許さず、翌安政四年の八月には、藩主松平慶永(まつだいらよしなが)の内命を奉じて、國家の重大事、卽(すなわ)ち、開國か攘夷かの問題と、將軍の後嗣(あとつぎ)、卽ち慶喜(よしのぶ)か、家茂(いえもち)かの選擇(せんたく)、此の重大事の爲に、朝廷、幕府、諸藩の間に奔走することになりました。その奔走一箇年の後、安政五年七月、藩主慶永は隠居謹慎(いんきょきんしん)を命ぜられ、ついで景岳も取調べを受けて閉居謹慎していましたが、翌年十月、傳馬(てんま)町の獄に下され、十月七日死刑に處せられました。二十六歳でした。

 

・・・中学や高校の教科書には、「安政の大獄」の説明の部分に橋下左内の名が記載されているぐらいで、その為人(人となり:生まれつきの性質、天性、本性)や事績(じせき:ある人が成し遂げた仕事、業績、功績)は全く取り上げられていません。

そもそも日本の歴史教育や地理、公民(政治・経済)などの社会科目は、全く学ぶものの興味や学習意欲を喚起させない様な教科書を文科省が検定済みとしている事が、多くの社会嫌いの児童・生徒を生み出しています。世の子育て世代のお母さん方に、学生時代の社会科目の授業について尋ねますと、一様に「詰まらない」「授業が眠くて苦痛だった」と云う意見が返ってきます。

それに比して、

平泉澄先生の「少年日本史」は、初版が昭和四十五年(1970年)ですから、当時の小中学生にも分かりやすい様に、漢字に読み仮名を添えていますが、旧漢字を用い、内容は高尚(こうしょう:知性や品性の程度が高い事、立派な事)です。

従って、景岳の國事に奔走しましたのは、二十四歳の秋から、二十五歳までの秋までの一年間であり、その身分を云えば、越前藩主の秘書官に過ぎないのでありますが、その視野の廣(ひろ)く、識見の高く、立案の雄大にして獨創(どくそう)的なる點(てん)、更にその態度の慎重にして禮節(れいせつ)にかない、接する人々を感激心腹(かんげきしんぷく)せしめたる點、どの點を見ましても當時の第一流であり、いや當時とのみ云わず、前後幾百年の間に比類を見ないのであります。

先ずその学問を見ますと、和漢洋の三つを兼ねて、その精粹(せいすい:清く混じり気のないこと)を採っています。吉田東篁(とうこう)に就(つ)いて山﨑闇斎(やまざきあんさい)の學問に根柢(こんてい:物事や考え方を成り立たせる土台となっているもの。基礎、根本)を養い、本居宣長を慕って櫻花晴暉樓(おうかせいきろう)と號(ごう:呼び名)し、藤田東湖(ふじたとうこ)を通じて水戸學に觸(ふ)れ、經國(けいこく:国を治めること)の識見を高めました。更に大阪の緒方、江戸の杉田と云う蘭學の大家(たいか)に従ってオランダ語を學び、直接にオランダの原本に就いて、西洋の文明を理解し、世界の大勢を知りました。そして人々が、世界の地理を知らず、西洋の歴史を知らず、列強の武力を察せず、その侵略の意圖(いと)を知らず、徒らに今日の泰平を謳歌している事を歎きました。

ポルトガルが東洋に進出して、マカオ(Macao)を占領したのは、今より四百年前のことでありますが、此の先例に鑑(かんが)みて、國家の防備を強化しなければならぬと説いたのは、景岳でありました。卽(すなわ)ち安政年間、人々は中秋の月見に興じ、酒を飲んで楽しんでいるのを見て、

「他が知らむ、一片(いっぺん)晴暉(せいき*)の影、嘗(かっ)て澳門(マカオ)の白骨を照らし來るを、」

と歌って、西洋人進出の犠牲となって殺された人々を悲しんだのでした。

清輝(せいき:清らかな光)

・・・続く。

 

 

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