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子供達の為に日本を学ぶ 片仮名の歴史2

国語力をつける大前提として片仮名をスラスラと読めることが必要です。現在の小学校教育では、片仮名を蔑ろにして平仮名から混じり書きの漢字へと進み、本当の国語力を付ける様にはなっていません。

さて、「片仮名」の文化的・歴史的な意義について述べてある著述、平泉澄(きよし)先生の「少年日本史」(P.185〜)から続きの引用です。

いきなり、言葉の用い方のお話が続きます。

太政官符というのは、太政官から出される命令の文書ですが、それは、「まさに何々すべき事」と題目をかかげて、それが單數ならば、之を受けては、「右」といい、その題目が複数である場合には、「以前」と之を受けるのです。單數に「右」といい、複数に「以前」と云って、決して混雜しないのを見ると、古い時代の頭脳の緻密さ、言語のきびしさが、想いやられるではありませんか。

昔の言葉、一定の理法のあったことは、たとえば、「無し」という言葉、上に「ぞ」があれば、「無き」となり、上に「こそ」があれば、「無けれ」となるによっても、分かりましょう。

古今集から例をとれば、

小倉山 峯立(みねた)ち馴(な)らし 鳴く鹿の 經(へ)にけむ秋を 知る人ぞ無き

は、「知る人無し」としても、意味は分かるのですが、それを強めて、「知る人ぞ」といえば、「無し」は「無き」と受けなければならず、もし「知る人こそ」といえば、「無けれ」とならねばならないのです。

・・・この後、平泉澄先生は、古今集から「係り結び」の歌の例を紹介されます。

殘りなく 散るめでた さくら花 有りて世の中 はての憂ければ

春の日の 光にあたる 我なれど かしらの雪と なるわびし

音羽山(おとはやま) けさ越えくれば ほととぎす 梢はるかに 今鳴くなる

山里は 冬さびしさ まさりける 人めも草も 枯れぬとおもへば

月見れば ちぢに物こそ 悲しけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねど

戀(こひ)すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見え 香(か)やは隠るる

かたみこそ 今はあだなれ これなくば 忘るる時も あらましものを

花の散る ことわびしき 春がすみ たつたの山の うぐひすの聲(こゑ)

春霞(はるがすみ) たつを見すてて 行(ゆ)く雁は 花無き里に すみならへる

あしびきの 山ほとどきす わがごと 君に戀ひつつ いねがてにする

暮るるかと 見ればあけぬる 夏の夜を 飽かずと 山ほとどきす

 こういう風に、かかりむすびの法則があって、少しも亂れていません。いや、是ほど難しい例を引き出すまでも無く、動詞の活用を考えれば、すぐに分かりましょう。

「行く」をとれば、明日行ば、行給ふ、行人、早行

「書く」ならば、文書ば、書終る、書子、大きく書

などと活用しましょう。

すべて是等を、どのように整理し、どのように説明したならば、國語の構造を明らかにし、人々に分かりやすくなるでしょうか。

もしも、五十音圖というものが無かったならば、これは非常に難しく、處置(しょち)がつかなかったでしょう。五十音圖があればこそ、何段活用など云って、之を整理し得るのです。國語の複雑にして、しかも美しい性質は、それは遠い遠い昔からあったでしょう。然し學術的に之を研究して、その本質を明確に理解し、その構造を明快に圖示したものは、前には無かったのです。それは何としても、五十音圖を待たねばならなかったのです。そして五十音圖が一たび作られると、それは國語の正しい姿を示すと共に、その正しさを維持する上に役立だったのです。

・・・このように説明していただくと、片仮名の五十音図の成り立ちがよく分かり、中・高生の時に学んだ現代国語や古典の文法など、筆者自身本当に表面的な理解であったことが分かります。当時は、恥ずかしながら機械的に暗記することに終始していました(懐かしくもありますが)。

人によっては、國語というもの、時代時代によって變(かわ)ってゆくものとして、流動變化を重く見る考(かんがえ)があります。然し、變化流動は、國語だけではありますまい。ほっておけば、禮儀(れいぎ)も亂(みだ)れ、作法も崩れ、道徳も忘られてゆくのです。その崩れやすい中に、規準を立て、理想を示す事が大切です。

國語の最も美しい形を平安時代に見、その正しい構造を五十音圖によって考え、言語を清く正しくする事が大切です。

 

・・・最澄(傳教大師でんきょうだいし)の門流、安然から明覺に至るまでの手による偉大な功績を、私達は尊重し、その恩恵に感謝しなければならない、と平泉澄先生は結ばれています。

posted by at 20:00  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

子供達の為に日本を学ぶ 片仮名の歴史1

学習塾・幼児教室 羅針塾(長崎市五島町)では、日本の文化や歴史をしっかり学ぶことが、子供達の国語力並びに知的レベルを上げる要諦だと考えています。

そこで、普段当たり前のように用いている「片仮名」の文化的・歴史的な意義について述べてある著述をご紹介します。度々引用している平泉澄(きよし)先生の「少年日本史」(P.185〜)から引用です。

少年日本史

 

片假名は、漢字の画の一部分を採って作ったもの、初めは人により、時によって、まちまちに作られていたものが、長い間に、段々と統一されて、今のように、決まったのです。

(ア)阿 (イ)伊 (ウ)宇 (エ)江 (オ)於

(カ)加 (キ)幾 (ク)久 (ケ)介 (コ)己

(サ)散 (シ)之 (ス)須 (セ)世 (ソ)曽

(タ)多 (チ)千 (ツ)川 (テ)天 (ト)止

(ナ)奈 (ニ)仁 (ヌ)奴 (ネ)禰 (ノ)乃

(ハ)八 (ヒ)比 (フ)不 (へ)部 (ホ)保

(マ)末 (ミ)三 (ム)牟 (メ)女 (モ)毛

(ヤ)也  ○        (ユ)由  ○         (ヨ)與

(ラ)良 (リ)利 (ル)流 (レ)禮 (ロ)呂

(ワ)和 (ヰ)井  ○         (ヱ)惠 (ヲ)乎

漢字の一部分を採って、その漢字の音や訓を借り、それによって國語を表すという事は、いそいで物を書く場合に、極めて自然に起こる事であって、誰でも思いつきそうなものですが、漢字の影響を受けた國々多い中に、日本に於いてだけかような假名が作られて事は、萬葉假名で見るように、自主的な態度で、氣樂に、外国の文化を消化し、利用してゆく國民性の表れでしょう。然し、本當に偉大であると思われるのは、アイウエオ、カキクケコ以下の、あの五十音圖の作成です。

・・・当たり前のように存在していると思っていた五十音図は、実は偉大な先人たちの創意工夫によって作られていたものであるということを、現代の日本人は殆ど知りません。

「いろは歌」の作者が明白にはわからないと同じように、五十音圖も誰が作ったものか、はっきりしません。然し是は、非常な學者、しかも語學者、それも悉曇(しったん)の學者の作ったものに相違ありません。悉曇というのは、古代印度の文字です。佛教を正しく理解する爲には、古代印度の文字、卽ち悉曇に通じる事が要求され、また重要な經文は、その悉曇から翻譯(ほんやく)せられて漢文になっているのですから、漢字の讀み方と、漢文の法則に通じている事が必要でしょう。つまり、印度や支那の語學を必要とするのです。空海は、悉曇に詳しかったようですが、此の學問は、却って最澄の門下末流に盛(さかん)で、その中から安然(あんねん)は、最澄の一族として生まれ、最澄のあとをついで叡山の座主となった圓仁(えんにん慈覺大師)に就いて、學びましたが、悉曇學に精通して「悉曇藏(しったんぞう)」という書物を作り、佛教界全體(ぜんたい)から尊重せられました。その後、また明覺(めいかく)という學者が出ました。北國(ほっこく)白山(はくさん)の麓(ふもと)、温泉寺に住んでいましたが、安然の學問を受けて更に之を発展させ、いろいろ重要な著作を残しました。大體(だいたい)堀河天皇の御代(みよ)ごろ、つまり今より八百五十年ばかり前の人ですが、此の明覺の書いたものには、語學の説明を、アイウエオの五十音圖によって行なっています。けだし外國語學の知識を本として、之を日本語に應用(おうよう)し、日本語の音韻と構造とを反省して、日本の文法を明らかにするという重大なる研究が、安然から明覺に至る一連の學者によって進められたのです。

・・・日本の義務教育で、此のような「アイウエオの五十音」の成り立ちを教える事がないのは、教育とは長い歴史の上で成り立っているということを、残念ながら教える側が認識していないことから来ています。そして、平泉澄先生は国語教育の欠落している点を指摘されています。

皆さん、慣れるという事は、良い事ですが、同時に、恐ろしい事です。我々は、子供の時から、毎日毎日、國語を使っています。それですから自由自在に話が出来るのですが、その代りに、國語の貴(とうと)さ、國語の正しい姿を忘れ、勝手にこれを崩し、亂雑(らんざつ)なもの、醜(みにく)いものに、して了(しま)ってはいませんか。

外國語を學ぶ時は、一語一語、辭書を引いて、丁寧にしらべてゆくでしょう。國語の方は、分かり切っていると思って、大抵ぞんざいに放置しているのではありませんか。

外國語は、殊にドイツ語などは、男性・女性・中性、現在・未来、単数・複数、それらの間にきびしい差別があって、その法則を覚えなければ、どうにもならないのに、國語は氣樂なもので、法則というものは無いのだ、と思っている人があります。飛んでも無い事で、もともと國語には、きびしい法則があり、その法則に従えば、實に美しい言葉になるのです。

・・・昨今は、大学受験改革の眼目として、寝ても覚めても「英語」教育の重要性を喧伝(けんでん:世間で喧しく言いふらすこと)する人たちがいます。

英語の前に、しっかりとした日本語を身につけるべきなのに、優先順位を間違えた教育が米国から占領されていた七年間にとどまらず、現在も続いてきています。

posted by at 21:58  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

小学校受験後のクールダウンとウォームアップ

先日まで注目されたRugby World Cup2019。Rugbyに縁のある塾生が在籍することもあり、興味深く観戦しました。

各種の受験であれsportであれ、戦いや競い合うことには一つの共通項があります。

本番に向けた体調及び精神的な管理。予選から始まり、本命の決勝戦に向けた力の溜めと爆発的発揮。

Rugbyは極めて体力の消耗や怪我の危険性の高いsportですが、Rugby World Cupの各国のサポート体制はそれぞれ工夫をしていることがよく分かり参考になりました。

ある意味では、受験もよく似たところが有ります。

例えると、青春時代の究極の目標が就職や国家試験・資格試験、またその前の大学受験。それらを、World Cupの決勝戦とすると、高校入試・中学受験・小学受験は地方大会の予選の様なものです。

予選である以上は、勝って当たり前の準備と心構えがないと予選で一回戦負けになりかねません。無論、予選で負けても敗者復活戦が用意されているのが受験です。

但し、勝ったり負けたりでは挑戦者としては意気も上がりませんし、それ以上を望むことは出来ません。

Rugby World Cup2015の日本代表ヘッドコーチ Eddie Jones(エディー・ジョーンズ)は指導力のあるコーチですが、彼の様々なエピソードは受験生を導く立場の者にとっては、多くの学びが有ります。

彼の言葉で印象深いものに、

子供の頃に、日系の血が混じっていることで白人の子に虐められた際に、父親から諭されたというエピソードがあります。

「いじめっ子をコントロールすることは出来ないが、自分自身はコントロールすることが出来るはずだ。自分をコントロール術を身に付けなさい。」、と。

正に至言(しげん:物事の本質を適切に表した言葉)です。

 

さて、多くの子供さんに小学校受験を終えさせた親御さんは、受験が終わったらよく頑張ったので、暫くゆっくり好きなことをさせてあげようと思われていることでしょう。

それは人情としては至極当然ですが、一流を育て続けているEddie Jonesならどうするでしょうか。

先ず、疲れた心と身体を一旦クールダウンさせることでしょう。数日は。

次の数日は、次の戦いへ向けてウォームアップを始めるはずです。

つまり、正味一週間で次の準備にかかることでしょう。

・・・一流を目指す人々は、どの世界であれ次のステップ・アップを目指し、歩むことをやめない。

子供さん達は、心も身体も成長し続けているわけですから、それに見合う指導体制を築くことが、親御さんや指導する立場の人が常に心掛けて置かなければならない事です。

エディー・ジョーンズHC率いるイングランドは優勝ならず【写真:荒川祐史】 引用https://the-ans.jp/rugby-world-cup/92009/

posted by at 14:36  | 塾長ブログ

大学入学共通テストに導入予定の英語民間検定試験

導入される予定だった英語の民間検定試験について、萩生田光一文部科学相は1日、令和6年度めどに実施を延期すると発表(産経新聞2019.11.1)。https://www.sankei.com/life/news/191101/lif1911010014-n1.html

具体的には、

●令和2年度の大学入試における民間英語試験活用のため、大学入試英語成績提供システムの導入を見送ること。

●英語教育の実現のために導入を予定してきた英語民間試験を、経済的な状況や居住している地域にかかわらず、等しく安心して受けられるようにするためには、さらなる時間が必要だと判断したこと。

●大学入試における新たな英語試験については、新学習指導要領が適用される令和6年度に実施する試験から導入することとし、今後1年を目途に検討し、結論を出すこと。

・・・実施する間近になっての結論ですが、大英断です。

英語の民間検定試験を大学入学試験に導入することについては、筆者は反対の立場です。正直なところ、文部科学省の文部官僚の拙速がもたらした結果だと考えます。賛成派の学者などの理屈はわからないでもありませんが、そもそも各種の民間試験の内容やレベルに差があり、成績評価の客観性に疑問が残ります。また、受験機会の不平等さや、受験料の高さも難点です。

いつの時代も、大学受験制度の変更があると、その年度の受験生は対応するのが大変です。但し、どの受験生にも平等な制度変更でなければなりません。

 

posted by at 14:31  | 塾長ブログ

コミュニケーション能力と経験から学ぶ言葉の意味

「コミュニケーション能力」という言葉が、教育界のみならず、社会人の中でもしきりに引用されます。この能力が人間同士の良好な関係を結ぶのに必須のものであるという認識が強まっています。

今後の英語教育の改善・充実方策について 報告~グローバル化に対応した英語教育改革の五つの提言~http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/102/houkoku/attach/1352464.htm

の中で、「思考力・判断力・表現力等を備えることにより、情報や考えなどを積極的に発信し、相手とのコミュケーションができなければならない。」とあり、外国人と意思疎通できる人材教育を重要視しています。

コミュニケーション(communication)とは、「人間が互いに意思・感情・思考を伝え合うこと。言語・文字その他視覚・聴覚に訴える身振り・表情・声などの手段によって行う」ことです。

子供は一歳半くらいから急速に言葉を覚えていきます。母親や家族の中で、子供は様々な生活体験を通して言葉を覚え、少しずつ使い方を覚えていきます。

ここで大事なことは、子供の経験と言葉との関係です。

ある言葉を覚えるには、その言葉を用いる「時」「場合」「目的」などを、直感的に理解した時です。母親が適切な助けをしてあげると、すんなりと言葉と用い方を学んでいきます。

一般的に、日常の生活の中で、様々な言葉が子供の耳に飛び込んできます。しかし、これらはテレビやDVD、インターネットを介した動画などのメディア経由がほとんどであると言えます。つまり、ほとんどが受動的に流し込まれている言葉でしかありません。あたかも、言葉のシャワーを沢山浴びていても、自らの手の平で受け止める量が少ないように、身につかないのが現状です。

音として単に言葉を知っていても、どんな時に、どのように使うのか、が分からなければ、コミュニケーションを取ることが出来ません。

詰まる所、様々な体験を通して言葉を覚え、使いこなせるようにすることが、幼児期の教育にとって必須なことです。

その為に、日常生活の中の様々な場面で経験しながら言葉を使うこと。更に可能な限り自然の中や様々な場所で、生きた言葉を使いこなせるようになる為に、普段出来ない体験を積ませることが大事ではないでしょうか。

その意味では、例えば令和元年の天皇陛下御即位の意味合いを子供さんに伝えることも大事な教育です。

橘神社の天皇陛下御即位奉祝展示

posted by at 14:49  | 塾長ブログ, 国語力ブログ
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