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国語力と言葉遣い

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

その基本となるのは正しい言葉の用い方です。言葉の意味、話し手・聞き手の関係なども考慮して、正しく言葉を用いることができるようになるのは、幼児期からの日々の積み重ねが必要です。

さて、裏千家前家元15代 千玄室氏の随筆「一服どうぞ」が産経新聞(2023/9/3 )に掲載されています。筆者も常日頃、正しい言葉遣いができない人達が増えている現状を憂いていますので、是非参考にしてみてください。

https://www.sankei.com/article/20230903-JNU7LGGFSRPG7GAOA3NDLXLHOM/

茶道裏千家前家元15代(wikipediaより)

「やばい」という言葉 裏千家前家元・千玄室

「言葉」というものは生きている。だから時代によって使われ方も変化するし、意味が変わってしまうこともある。その上、今に始まったことではないが、若者から新語が生まれる。それらのほとんどは一時的なもので、大人が認識する頃には既に旬を過ぎ、若者からすれば、所謂(いわゆる)遅れた言葉となっている。その中でも世の中に広まり、誰が使っても違和感がなくなった言葉は辞書に編纂(へんさん)され、後世へと受け継がれていく。

たまに見るテレビ番組で、昨今気になる言葉がある。料理や菓子を食べた出演者が「やばい」と言っているのだ。どうやら、とても美味しいという意味で使っているようだが、本来の意味とはかけ離れてしまっている。彼らは本来の意味がわかっているだろうか。

やばいという言葉の語源は諸説あるが、一説によると、江戸時代までさかのぼる。牢屋の看守を「厄場(やば)」と呼んだことから、悪人仲間で、悪事を働き捕まりそうなことを「やばい」と言っていたものが、いつの頃からか不都合なことや危険なことを表す言葉に変わっていったというのである。

それが、さらに今の若者言葉へと変わっているのだが、私の若い頃は、普通の人がやばいという言葉を使うのも聞いたことがなかった。昔から言葉には言霊が宿るといわれるが、言葉は大切にしてほしいと思う。

・・・若者言葉として1980年代頃から、「やばい」は「格好悪い」の意味合いで用いられるようになったようです。更に、90年台からは、「凄い」「最高」の意味でも使われます。現在では、否定・肯定問わず用いられ、更に、意味もなく発する言葉として「やばい」という例もあります。

欧米の若者とも共通する日本の若者の「語彙」の貧しさの表れでしょう。テレビや映画の会話の場面で、繰り返し用いられる言葉に首を傾げるのは、教養や常識という物差しを当ててみれば当然です。若者であっても、賢明さがあれば、時と場合によって使い分けるはずです。

更に、千玄室氏は述べられます。

万葉集の巻一の二番目に私の好きな舒明(じょめい)天皇の御歌が載っている。

「大和(やまと)には 群(むら)山(やま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は けぶり立ち立つ 海原(うなはら)は かまめ立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は」

大和は今の奈良県がある地域の旧国名で、かつて天皇もいらしたところだから、一見、奈良の歌のようだが、日本の成り立ちを伝える古事記では「蜻蛉島 大和の国」は日本に対する神話的呼称であり、五穀の豊かに稔(みの)る聖なる国を意味する。「うまし国」は「美し国」と字を当てることもあり、「うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は」は「美しくすばらしい国だ、日本は」と読めるのである。

蜻蛉島の「蜻蛉」は言うまでもなくトンボのことだが、この虫を昔の日本人は「あきつ」と呼んだ。日本書紀には、神武天皇が今の奈良県の丘陵に上り、国を眺められた時に「狭い国だが、あたかも蜻蛉(あきつ)が交尾している形のように山々が連なり囲んでいる国だ」と言われたことが記されている。それで「蜻蛉島」「秋津洲」(いずれも「あきづしま」と読む)という言葉が生じたとされる。トンボは穀霊の象徴で、五穀豊穣の予兆であると考えられてきたから、「蜻蛉島 大和の国」という言葉からは、人々の豊穣への願いを読み取ることもできる。

日本人であるからには、このような豊かな言葉を正しく使っていってほしいものである。

 

・・・全く同感です。

千 玄室氏は、御歳百歳。ある講演会で、お話を聞き、握手して頂いたのが九十歳前半。変わらぬ若々しい文化教養人です。

 

posted by at 16:12  | 塾長ブログ, 国語力ブログ

日本の素晴らしさを伝える 2

日本の素晴らしさを伝える1「上皇上皇后両陛下と硫黄島の英霊たち」からの続きをご紹介します。

上皇陛下・上皇后陛下行幸啓  硫黄島

 

■6.硫黄島での慰霊の御製・お歌

 平成の時代には様々な災害に見舞われましたが、上皇上皇后両陛下は、そのたびに被災地を訪問され、被災者たちを慰問され、救援者たちを励まされてきました。まさに共同体の絆を強めることで、大御宝である被災者たちの安寧を祈られてきたのです。

 それと同時に、両陛下が戦災地を廻られる慰霊の旅を続けてこられたことは、縦軸の共同体の絆を強めることであり、縦軸と横軸の一対をなす祈りでした。

 平成6(1994)年2月、両陛下は硫黄島に行幸されました。徒歩半日ほどで一回りできる小島を、大戦末期に2万余の日本軍将兵は36日間も持ちこたえました。米軍は死傷者2万6千近い大損害を受け、米国内では実質的な敗戦ではないか、との一大論争が巻き起こりました。こんな小さな島を奪うのに2万6千余もの犠牲を出していては、日本の本土決戦となったら、どうなるのか、と。

 この戦いの直後に、強硬に日本の無条件降伏を主張していたルーズベルト大統領が急死し、ポツダム宣言が提示されて、ようやく日本の有条件降伏への道が開かれたのです。[JOG(191)]

 硫黄島の地で、両陛下は次の慰霊の御製を詠まれました。

 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき(天皇陛下)

 慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲(ほ)りけむ(皇后陛下)

 硫黄島にはいまだ1万3千柱の遺骨が地下に眠っています。英霊たちは一日わずか500ミリリットルの水しか与えられずに、40度、50度となる火山島の地下で壕を掘り続けたのです。

 

・・・硫黄島(いおうとう)の戦いBattle of Iwo Jima)昭和二十年(1945)2月19日〜3月26日は、大東亜戦争末期に東京都硫黄島村に属する小笠原諸島の硫黄島において日米間で行われた激戦です。当時の天皇陛下の慰霊の御製は、日本陸軍13,586名、海軍7,347名の必死の戦いに臨んだ将兵へ向けられたものです。

 

■7.お声をとり戻された皇后陛下、天に昇る無数の火柱

 実は、このご訪問の前年10月20日、皇后陛下は突然倒れられ、以来、お声を失われていました。医師の所見としては「何らかの強い悲しみを受けたことで一時的に言葉を発せられない症状が出たのではないか」ということでした。当時、週刊誌などが「皇后陛下バッシング」を盛んに行っていた事が原因であったのは、誰の目にも明らかでした。

 ですから、その4ヶ月後に硫黄島に着かれた時も、皇后陛下は言葉を失われたままだったのです。ところが、硫黄島での参拝を終えられると、突然、東京都遺族連合会の石井金守会長に「ご遺族の方たちは、みなさん元気でお過ごしですか」と声をかけられたのです。

 硫黄島の遺骨収集に参加し、両陛下ご訪問時の様子を自衛官から聞いた窪山忠成氏が次のような手記を残されています。
__________
 平成六年、天皇陛下が皇后陛下とともに硫黄島に慰霊におこしになられた。その際、両陛下は島内の「鎮魂の丘」にお立ち寄りになられ、硫黄島の戦いで亡くなられた方々に祈りを捧げられた。

 それまで硫黄島では、頻繁に『霊障』のようなものが起きていて、『おーい」と言う声が聞こえたり、ドアを叩く音が聞こえたり、廊下を歩く音が聞こえたりと、それがあまりにも多いので、隊員達は困っていたという。ところが、陛下が硫黄島を御訪問され、皇后陛下とともに祈りを捧げられたその夜、無数の多くの『火柱のようなもの』が天に登っていくのが見えたそうである。[祖國と青年]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この記事を書かれた鈴木由充氏に「霊」の話をしてくれた硫黄島駐在の自衛官は、最後にポツリとこう語ったそうです。
__________
 でもね、平成6年に天皇皇后両陛下が硫黄島に来られたことがあったでしょう。そのときに霊がピタッと出なくなったって言うんですよね・・・[祖國と青年]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■8.「姿なきあまたの御霊(みたま)国護るらむ」

 鈴木氏は以上の一連の出来事について、こう記しています。
__________
 無数の火柱が天に登っていく--それは、祖国のために精根込めて戦い、人知れず散っていったその労苦を両陛下にお認めいただいたことによって昇天した「御霊」の姿であったに違いない。そして、硫黄島の地から解き放たれた彼らは、これからは護国の英霊として「海陸のいづへを知らず」この国を護って下さることだろう。

 そう思うと、皇后陛下がお声を失われたのも、焼けつくような喉の渇きに耐え続け、ただひとすくいの水を願った将兵の苦しみを受け止めるために、神々が与えられた試錬だったのではなかったかとさえ思われてくる。その後、硫黄島で御霊との邂逅(かいこう)を果たされた皇后陛下はお声を取り戻され、御霊は昇天した。[祖國と青年]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「海陸のいづへを知らず」とは、平成9(1997)年に発表された「終戦記念日」と題された皇后陛下の次のお歌です。

海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なきあまたの御霊(みたま)国護るらむ

 姿なき無数の御霊が、海陸を問わず、我が国を護ってくれているだろう、という御思いです。そのように先祖の霊が見守ってくれているなら、その気持ちを受け継いで、我々も子孫のために、しっかりと国を護らなければなりません。

 社会の中で互いに励まし支えあう横の絆と、先祖の護りに感謝しつつ子孫のために尽くす縦の絆とで、大和心は織りなされています。一人でも多くの日本国民がこの大和心に目覚めることで、国民が互いに「処を得て」大御宝として大切にしあう「仕合わせ」の国に近づきます。それが神武天皇が目指された「真の日本」なのです。

 

・・・魂や霊の存在を感じざるを得ない感動的な逸話です。

縄文時代(さらにそれ以前)から連綿と続く日本。幾多もの自然災害や危難を乗り越えてきた日本人の祖先達の生き抜く力があったからこそ、現在の日本人にその力を繋いできていると考えれば、これからの日本の未来を引き継いでいく子供達も希望や活力が湧いてくることでしょう。

 

日本の素晴らしさを伝える 1

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

その為には、依って立つ日本の国柄や日本人について、まず知ることが大事であると思います。つまり、自分自身の英語で言うところの所謂roots(ルーツ:始祖、祖先)、日本語では御先祖様から現在の自分に至るまでの歴史から始まり、敷衍(ふえん:押し広げること)して、先人・偉人の業績、日本の国の真実の歴史等です。

その例として、いつも引用させて頂く国際派日本人養成講座(Japan On the Globe(1332))http://jog-memo.seesaa.net/article/500428863.htmlからのご紹介です。少し長くなりますので、2回に分けております。

上皇上皇后両陛下と硫黄島の英霊たち

両陛下の慰霊によって、硫黄島をさまよっていた英霊は火柱となって天に昇っていった。

・・・テーマの出しから惹きつけられる文言です。

そして、

■1.世界は不和に満ちている

 日本ではあまり報道されていませんが、中国が大変な大洪水に襲われています。YouTubeでは、多くのトラックや乗用車がまるでおもちゃのように、激流に流される動画が多数、公開されています。いくつか視聴回数の比較的多いものを挙げると:
・「中国洪水に世界が震撼! 北京と河北省からの巨大な映像!」929万回視聴
https://youtu.be/3k-rpTBgg3E
・「橋は破壊され、中国は水没した! 北京で川の氾濫による被害」267万回視聴
https://youtu.be/NAy31V6P0zQ

 中国の自然破壊は日本人の常識を超えています。とある工業都市で見た、真っ黄色のペンキを流したようなドブが忘れられません。柵もないので、人が落ちたらすぐに死んでしまうのでは、とぞっとしました。環境のことなど一顧だにせず、金儲けに走る中国社会に、大自然が復讐しているのでは、とさえ思える大洪水です。

 先月はフランスでの移民暴動に驚かされました。
・「【前代未聞】フランスの緊急事態をフランス人が分かりやすく解説します」118万回視聴
https://youtu.be/FlFt84wFUQQ
・「【フランス全土で暴動】一体何が起きた?パリ五輪会場も炎上、拘束者は3000人以上。デモが過激化した理由を解説します!」25万回視聴
https://youtu.be/w-Vi0xXnt90

 フランスの移民は約700万人、人口の10%強を占めます。もともとのフランス人と中近東やアフリカからの移民の対立が先鋭化しています。

 人類社会は、ロシアのウクライナ侵攻のみならず、自然との対立、一国内の対立と、不和で満ち満ちています。

・・・新聞・テレビなどが伝えない世界の現状を伝えるところから始まります。インターネットの普及に伴い、文部科学省が提唱する「情報リテラシー」も、興味を持たせないことには子供達も活かすことは出来ません。

■2.社会の和、自然との和

 日本列島にも異常な大型台風が続けて襲来して、各地で被害が出ましたが、テレビのニュースを見る限り、上記の不和に満ちた光景とは、まったく別世界の感がありました。

 被害にあった方々は、大きな被害を受けた家の前で、それでも穏やかな表情で被害状況を淡々と語っています。各地から集まったボランティアの人々は「一刻も早く日常生活を取り戻せるよう」と、心のこもったコメントをしています。テレビは映しませんが、自衛隊や警察、消防などの方々も懸命の救援作業を続けてくれているでしょう。

 どれほど辛い悲しい目にあっても、人様にむき出しの怒りや嘆きを見せて、いやな思いをさせてはならない、というのが、我々日本人の世間に対する礼節です。東日本大震災で世界を驚かせた東北の人々の冷静で思いやりに満ちた態度も、この心根が直接、表れた姿でした。

 日本でも時に凄まじい激流が氾濫したり、橋を壊したりはしますが、多くの川では普段はグラウンドや公園として利用されている河川敷があって、その外側に堤防が築かれています。我が祖先たちは、田の実りをもたらす川が、ある時は涸れたり、ある時は激流となることをよく知っていました。

 その自然の変動をなだめるために、全国で20万と言われる溜め池を作ったり、ほとんどの大きな河川には河川敷と堤防を作りました。自然との和を保ち、折り合いをつけてやっていくには、人間の側でそうした日頃の努力が不可欠である事を知っていたのです。

 このように見れば、社会や自然との和は、世界でもユニークな日本人の国民性となっている事が分かります。こうした心根を「大いなる和の心」という意味で、大和心と呼びましょう。それは「大和の国」日本だけに伝わる心ではありません。中国やフランスでも、人々がもう少し大和心を持っていれば、冒頭で述べた大災害、大暴動も、これほどひどくはならなかったのではないでしょうか。

・・・その根拠となる視点を大きな歴史の流れから、読み解かれます。

 

■3.自然と敵対し、人間同士の争いを招いた原始的農耕

 社会の和、自然との和を柱とする大和心は、縄文時代に源を持つと考えられます。縄文人たちは、農耕や牧畜をせずに、狩猟採集のまま定住したという点で、世界でもユニークな文明を築きました。

 狩猟採集と言っても、獣60種類以上、魚70種類以上、貝350種類以上、その他に山菜・野菜・木の実など、実に多種多様ないのちをいただいていました。こういう生活から、「自分たちは自然に抱かれて生かされている存在であり、自然も自分たちもすべては神の分け命である同胞だ」という世界観が育まれたのです。

「すべては神の分け命」と考えていれば、旅の途中で出会った見知らぬ人とも敵対することはありえません。相手も同じ神から別れ出た同胞ですから、親しみあい、助け合うのが当然と考えます。縄文時代には武器はなく、戦争もなかったと考えられています。

 ところが世界の他の地域で発達した原始的農耕では、森を切り開いて畑にします。多様ないのちが生きる自然を破壊して、小麦だけを植えます。その結果、人間は「自然に生かされている存在」ではなく、「自然を支配し利用する存在だ」と思い上がってしまったのです。しかし、浅智慧の人間は無限の複雑性・多様性を持つ自然に復讐されます。

 小麦だけを育てていれば、土は痩せ、別の土地に移らなければなりません。森を切り開いて畑にしてしまえば、大地の保水能力が失われて、乾燥してしまいます。このために、ナイル川、チグリス・ユーフラテス川、インダス川、黄河など大河の流域に始まった古代文明は、みな周囲を砂漠化してしまったのです。

 また、大地を自分の力で切り開いて畑にすることで、人間はその地を「自分のもの」と考え、他者には使わせないようになります。そこから土地を巡る争いが起こるようになりました。

 縄文人たちも栽培の技術は持っていて、栗の植林をして、その実を食べたり、木材で竪穴住居を作ったり、薪にもしていました。しかし、大規模に森を切り開いて畑にするようなことはしませんでした。イギリスの考古学者マーク・ハドソンは「本格的農耕に対して、縄文社会側に『イデオロギー的抵抗』があったのではないか」と言っています。[松木武彦『人はなぜ戦うのか』]

 自然との和、社会の和を大切にする縄文人から見れば、多様ないのちを抱く森を破壊し、人間同士の争いを誘発する原始的農耕に「イデオロギー的抵抗」を持ったのも当然でしょう。

■4.先祖から子孫へのつながる縦軸の共同体

 自然は循環します。多くの貝は初夏に肉をつけ、縄文人がそれを食べても、翌年の初夏にはまた肉をつけた貝が現れます。そこから縄文人たちは命はこの世からあの世に行っても、またこの世に戻ってくると考えました。そこで食べ終わった貝殻を貝塚に葬って、あの世に送り、またこの世に戻ってきてくれる事を祈りました。

 貝殻だけでなく、人の骨も、共に暮らした犬の骨も、生活を支えてくれた土器の破片も貝塚に葬りました。貝塚とはゴミ捨て場ではなく、「お墓」だったのです。

 亡くなった先祖の霊は、山の上から子孫を見守ってくれており、いつか、また子や孫として戻ってきてくれると考えたようです。そこに祖先への感謝と、子孫のために食物を採り尽くしてはならない、という思いを生んだと考えられます。

 このように、大和心とは同胞たちや自然からなる横軸の共同体の中で、そして先祖から子孫へとつながる縦軸の共同体の中で、自分自身の「処を得て」務めを果たそうとする姿勢だと言えましょう。

■5.和の共同体を再建した神武天皇の建国

 縄文社会は1万数千年続いた後、地球の寒冷化による食糧不足で大陸からの難民もやってきて、戦乱の弥生時代に入ります。そこでの和を回復しようとしたのが神武天皇でした。神武天皇が各地に広めた水田稲作は自然の中での水の循環を前提とし、砂漠化と土地が痩せる恐れはありませんでした。あとは、国家の建設によって土地争いを予防すれば、社会の和を再建できるのです。

 神武天皇は人民を大御宝と呼んで、その大御宝が家族のように和して暮らすことを目指そうと、即位の際に呼びかけられました。同時に、稲穂を地上にもたらすことを命ぜられた天照大神以来の先祖神の徳を継承することを誓われています。

 日本国家は、このように共同体の横軸、縦軸の和を実現することを目的として建国されたのです。その建国の詔に謳われた祈りが代々の皇室と国民の努力によって、今日の我々の大和心につながっているのです。

 

・・・・・このようなお話は、小さな子ども達にもよくわかる内容です。

学校で習う日本の歴史、世界の歴史の教科書には、決して書かれていない納得の語り口は、日本人の琴線に触れるものです。

 

語彙力は倦まず弛まず

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

当塾では、小・中学校の義務教育の間に、クラス一番、更に学年で一番になる秘訣があると考えています。

「為すべきときに、為すべきことをする」

具体的な方策は、子供さんの特性を見極めながら、それぞれによって異なります。

基本的に、国語力の基本である語彙・漢字を徹底して先取り学習していきます。その為に国語辞典・漢和辞典の活用は必須です。

これは英語の学習も同様です。英語の小学校での教科化がなされた以上、対応も同様です。子供さん達には、日本語の語彙力と英語の語彙力をつけるのは大変なことですが、身につけることが出来れば、中学校・高校と成績が伸びる大きな要素となります。

『学問は、
ただ年月長く倦まず
おこたらずして、
はげみつとむるぞ肝要』  本居宣長(国学者・古事記研究の第一人者))

・・・学問に取り組む為には、ひたすら長い間、倦まず(飽きることなく)、怠る(なまけたり、飽きたりする)ことなく、励んで、努力し続けることが肝要(非常に大切であること)である、と。

修身3年生 「せいとん」

本居宣長は、戦前の小・中学校の修身(教育勅語を拠り所として、国民道徳の実践指導を目的としたもの)にも、小学校3年次に取り上げられています。

 

六、せいとん

本居宣長はたくさんの本をもってゐましたが、いちいち本ばこに入れてよくせいとんしておきました。それで夜はあかりをつけなくても、思ふやうにどの本でも取り出すことが出来ました。

宣長はいつもうちの人にむかって、「どんなものでも、それをさがす時のことを思ったならば、しまふ時に気をつけなければなりません。入れる時に少しのめんだうはあってもいりようの時に、はやく出せる方がよろしい。」といってきかせました。

 

・・・戦前の国定教科書は、現代の教科書と比べると、非常に素晴らしい記述があり、初等中等教育に当時の教育者の相当な熱意が注がれていたと推察できます。

小学校就学前の幼少期から、一つづつ言葉を覚え、語彙を増やし、よく聞くことから始まり、しっかり応答できる様にしていけば、日々賢くなっていきます。

 

 

天才には幸運がつきもの

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

さて、藤原正彦お茶の水女子大名誉教授の「天才には幸運がつきもの」(読売新聞2004年7月19日)という随筆を引用してご紹介します。

天才には幸運がつきもの

梅雨の一日、東海道線を岐阜県の大垣で乗り換え、樽見鉄道で糸貫に向かった。十数名の客を乗せた一両編成の列車は、まもなく市街地を抜け緑そよぐ田園地帯に入った。田植えを終えたばかりの田が折から雨に打たれていた。

二十余分で糸貫についた。ここは世界的な数学者高木貞治(ていじ)の生地である。明治八年にこの地で生まれた博士は、大正中期に類体論と呼ばれた壮麗な理論を打ち立て、世界を驚倒させた。日本は十七世紀に和算の大輪を咲かせたものの、鎖国のせいもありその後ヨーロッパに大きく水を開けられた。維新以来、西洋数学の輸入に忙しかった後進日本に、突然巨星があらわれたのである。独創には自信が要る。博士の途方もない偉業を見て、日本人でもやれる、と勇気付けられた俊秀が数学各分野に次々とあらわれ、その後三十年ほどのうちに日本は数学における一大強国にまでなった。和算で示された日本人の類稀(たぐいまれ)な数学的才能が、再び花を開いたのである。そしてその伝統は現在に続いている。高木貞治はまさに日本数学の父である。

激しい雨の中、糸貫駅から半時間ほど歩くと、富有柿の畑に三方を囲まれて高木家があった。生家は建て直されていたが、戦災で家を焼かれた博士が一年ほど疎開されていたときの住居はそのままだった。

天賦の才能を生まれながらに持った人は多くいるのだろうが、それが開花するにはいくつかの幸運が重ならなければならない。それがなくて埋もれた天才はいくらもいよう。とくに幼い頃の幸運は重要である。博士の幼年期、両親が暇さえあれば絵草紙を見せたり昔話を聞かせたりしたこと。信心深い母親が幼い博士をお寺参りに連れて行ったこと、その為五歳の時分に親鸞聖人の御伝鈔(おでんしょう)を聞き覚え大方暗唱してしまったこと。たまたま隣に住んでいた医者が、博士四歳の頃より漢籍、書道などを教えたこと。これらはこの上ない幸運といえよう。幼い頃に算数や数学を特別に学んだ形跡はない。むしろ読み聞かせとか暗誦、宗教心、といった数学とは無関係と見えることばかりである。この特徴は洋の東西を問わず数学の天才の幼児期によく見られるから、独創性と関係があるのかもしれない。

博士には苦節の十二年間がある。ドイツ留学から帰り博士論文を仕上げた二十八歳から、四十歳に至るまで論文を一つも書いていない。留学時代「日本より五十年進んでいる」と世界一のドイツ数学に圧倒された博士に、独創への自信はまだなかったのではないか。ところが四十歳を目前に勃発した第一次大戦により、ドイツの本や論文が入らなくなった。「学ぶ」から「創る」へと切り換えざるを得なくなった博士は、五年間の激しい集中により大戦後間も無く、ドイツ数学を呑み込んでしまうような類体論を完成した。二十世紀数学の巨匠ヒルベルトが予想した理論を遥かに超えるものだった。生まれたものが余りに画期的だったので、本当に正しいのかどうか自信がなく、高木は「どこか間違えているはず」と証明完成のあと、一ヶ月も間違いを探し続けたという。ヨーロッパ最大の悲劇であった第一次大戦は、高木貞治の、そして日本数学の幸運であった。

 

高木貞治1953頃 Wikipediaより

・・・様々、藤原正彦お茶の水女子大名誉教授の著作を読みましたが、このessay(随筆)は秀逸です。この文字数の中で、幾重にも様々な精髄(せいずい:物事の中でもっと優れていること)を織り込み、品性ある言葉を連ねる技は、文章修業には良いお手本です。藤原正彦先生については当ブログで先述していますからご参照ください、→ https://rashinjyuku.com/post-1084/

そして、

天賦の才能を花開かせる出会い、人の縁。これは、正に「天のとき、地の利、人の和(*)」を活かすことができるか、です。

*孟子『公孫丑章句上』一節の「時不如利。地利不如和」(天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず)

・・・「読み聞かせとか暗誦、宗教心」は、子供を教育する親御さんに必須、と常々筆者も考えます。

「読み聞かせ」は、幼児期には「聞く力」を持たせ、「想像力」の火付け役。

「暗誦」は、そらで覚えていることを口に出して言うこと。「表現力」の水先案内。

「宗教心」は、すべての森羅万象に「感謝」する心持ち。「世の為人の為」となる器(うつわ)。

・・・と、愚考しています。

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