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長崎県立高校 入試説明会の所感

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp は、塾生の将来に役立つ情報を常に摂取しています。

長崎市の公立・私立高校の入試説明会が始まる時季となり、例年各校の成果や実績を聞かせて頂くのを楽しみにしております。時代の要請もあるのでしょうが、広く高校の理念や建学の精神を伝えようとされています。進学を考える児童・生徒には自らを磨くにはどの高校が適しているかを、見極める必要があります。

まだ数ある説明会の一部にしか行っておりませんが、各校の訴えるところを筆者なりに分析しています。それぞれ特色を打ち出されていますが、総花的に伝える学校や、要点を絞って訴える学校等、校長先生などトップの考え方が反映されています。

夏至の長崎港

 

各高校の校内を歩いているときに、玄関周り、廊下、便所・洗面所、掲示物、事務室、職員室などの様子や、場合によっては授業を受けている教室の生徒さんの様子、先生の指導、板書、教育機器、備品なども垣間見ることがあります。

それらを拝見していると、企業訪問ではありませんが、学校の実態を想像できます。企業同様、学校も建物の新旧を問わず、整理整頓され、掃除が行き届き、備品も適切に配置されているか、観点は様々にあります。

それらの感触を掴んでから、説明会に臨みます。

そして、校長先生はじめそれぞれのご担当の先生方のお話を真摯にお聞きして、必要なら質問も致します。何故なら、塾生をお願いしたいと思える学校を峻別したいからです。

一般論として述べれば、

高校生の年齢は、古来日本で行われていた「元服(奈良時代以降、男子が成人になったことを示す儀式。普通、11~16歳の間に行われた)」に準えれれば、ほぼ同年齢です。平均寿命が現在よりはるかに短い時代においてさえ、若者を自立させるのに適した年齢を見極めていたからこそ、11~16歳の間に元服させていたのです。この年齢は、現在で言うところの、小学校六年生から高校一年生。

日本人の歴史から鑑みれば、今ほど若者を自立させていない時代はないのではないでしょうか。つまり、驚くことに某高校の説明会で、「子供達(生徒と言わず)の自学する習慣が段々と付いてきた」と明言されたことです。16歳といえば、武士の子ならば、初陣をすませるか否かのときです。その同じ年齢で、やっと自学する癖がついたというのは情けない話です。

これは、現在の世の中が、子供達に辛抱して努力することの大事さを教えてこなかったツケが回っているということになります。「艱難汝を玉にす」という諺や「辛抱」という言葉の意味を、大人達(親、先生などの指導的立場の人達)が語っているのでしょうか。

ずばり、直言すると、世の中(特に教育界)が寄ってたかって、子供達を甘やかせています。英語のspoil(スポイル)とは、「本来持っている良い性質を損なうこと。物事をすっかり台無しにすること。甘やかして駄目にすること。」と有ります。

学習する習慣づけと称して、中学や高校生に書き込み式のスケジュール表を書かせ、毎日何時間学習したかを申告させ、空欄書き込み式のプリント中心の授業をし、山のような宿題を出し、毎週のように模擬試験をする、等々。

本人に考えさせる遑(いとま:余裕)や自ら学習計画を立て、実践し、失敗する機会を与えないようなものを「教育」というのでしょうか。

自ら考えて計画し、実践し、検証して、次に活かす。所謂、PDC-cycle(Plan-Do-Check)を自ら率先して日々行えるように児童・生徒に動機付けするのが、先生の必要不可欠な役割と考えるのは、筆者だけでしょうか。

posted by at 14:37  | 塾長ブログ

何故学ぶのか 勤學 塙保己一

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp は、情報が溢れる現代だからこそ、限られたものの中から精選して学ぶ価値のあるものを熟読玩味する必要があると考えます。

先のブログでご紹介した「幼學綱要(ようがくこうよう)」卷之三 勤學第六 には、勤學についての数多くの古人聖賢の逸話が紹介されています。そのうちの一つをご紹介します。

塙保己一 源氏物語を講す

 

塙保己一(ハナワホキイチ)ハ、武蔵(ムサシ)ノ國兒玉郡保木野(ホキノ)村ノ人ナリ。幼時病テ明ヲ失フ。年十五ニシテ江戸ニ出ズ。雨富某ノ家ニ寄リ。絃歌鍼治ヲ學ブ。成ラズ獨古書ヲ好ミ。一書ヲ得レバ。則人ニ請テ之ヲ讀マシメ。一事ヲ聞ケバ。則人ニ請テ之ヲ校セシム。聞ケバ輒誦ヲ成シ。心耳ト謀リ。遂ニ文字ニ通ズ。萩原。川島。山岡ノ諸人ニ從テ。漢籍ヲ受ケ。皇朝ノ學ヲ修メ。傍ラ律令ヲ學ブ。年二十四。賀茂真淵ノ門ニ入リ。益皇朝ノ學ヲ勤ム。凡ソ皇朝ノ歴史。律令格式ヨリ。歌書物語及ビ漢籍ニ至ルマデ。渉猟シテ暗記セザルコト無シ。遂ニ和學講談所ヲ設ケテ教授ス。門徒頗ル盛ナリ。壯歲ヨリ。群書類従編輯ノ業ヲ起シ。四十五年ヲ閲シテ。千二百七十部六百七十卷ヲ刻ス。續編千八百部。又繼デ成ル。共ニ三千七十部ナリ。保己一。嘗テ源氏物語ヲ某氏ニ講ズ。日暮テ風燈ヲ滅ス。坐人暫ク講ヲ輟メムコトヲ請フ。保己一曰ク。何ノ故ゾ。曰ク。風燈ヲ滅ス。當サニ之ヲ點ズベシ。保己一笑イテ曰ク。目アルノ人。誠ニ事ニ便ナラズト。

「塙保己一は、武蔵国兒玉郡保木野(ホキノ)村の人である。幼い時に病により失明する。齢十五歳で江戸に出る。雨富某(ぼう:意図的に名を示さない)の家に寄宿する。絃歌(琵琶・箏・三味線など弦楽器を弾きながら歌う歌)鍼治(鍼を用いて治療する術)を學ぶ。(しかし)成就せず、独り古書(昔の書物)を好む。一つの書を手に入れれば、即座に人に請うてこの書を読んで貰う。あることを聞けば、即座に人に請うてこれを校(比べあわせて正すこと、調べること)させる。聞けば、直ぐに(ただちに)、謡いだす。心耳(心で聴くこと)を謀る(努力する)ことにより、遂に文字に通暁(つうぎょう:隅々まで知ること)する。萩原、川島、山岡の諸人(多くの人、様々な人)に従い、漢籍(支那の書籍)を學び、皇朝(皇国の朝廷)の學問を修める。その傍ら、律令(律は刑法、令は行政法、訴訟法などにあたる)を學ぶ。齢二十四歳のとき、賀茂真淵の門に入り、益々、皇朝の學問に勤む(いそしむ:努めること)。凡そ(そもそも)皇朝の歴史、律令格式、歌書(和歌についての書物。歌集や歌学書・歌論書)・物語(日本の古典文学で「竹取物語」「伊勢物語」にはじまり、「宇津保物語」「源氏物語」を頂点とし、鎌倉時代の擬古物語に至る物語を指す。)及び、漢籍に至るまで、渉猟(たくさんの書物を漁り読むこと)して暗記しないことはなかった。そしてついに、和學講談所を設立して教授することになる。その門弟は非常に多かった。壮年(働き盛りの年齢)より、群書類従の編輯(一定の方針のもと文献などを集めてまとめること)の作業を始め、四十五年間閲(けみ:校正の目的で調べること)して、二百七十部六百七十卷を刻(版木を製作)する。続編千八百部もまた続いて成す。併せて三千七十部である。

塙保己一がかって源氏物語を某氏(ある人)に講義をした。日が暮れて、風で灯火が消えてしまった。その場の受講者が暫く講義を止めてほしいと要請した。保己一が曰く、何の理由で講義を止めるのだ、と。曰く、風で灯火が消えたので、火を点ずるのです、と。保己一笑って曰く、目が視える人は、かえって必要なときに不便なものですね、と。」

絹本著色塙保己一像(住吉広定(弘貫)筆、個人蔵、福島県指定重要文化財) ウキペディアより。

塙保己一(はなわほきいち)(1746―1822) 

江戸後期の国学者。延享(えんきょう)3年5月5日生まれ。武蔵(むさし)国児玉(こだま)郡保木野(ほきの)村(埼玉県本庄(ほんじょう)市児玉町)の百姓荻野宇兵衛(おぎのうへえ)の長男。幼名寅之助(とらのすけ)。7歳、病により失明、辰之助(たつのすけ)と改称。15歳、江戸に出、雨富検校須賀一(あめとみけんぎょうすがいち)に入門、千弥と改名。翌年、須賀一の勧めで、歌学を萩原宗固(はぎわらそうこ)に、神道を川島貴林(たかしげ)に学ぶ。のち故実を山岡浚明(まつあけ)に、医学を東禅寺の孝首座(こうしゅそ)に学ぶ。18歳、保木野一と改名。24歳、宗固の勧めで賀茂真淵(まぶち)に入門。30歳から塙姓(須賀一の本姓)を称し、名も保己一と改める。34歳、各地に存する未刊の国書を叢書(そうしょ)として出版することを志し、41歳(1786)から『群書類従』(530巻1270種)の刊行を開始し、幕府の援助を得て、74歳(1819)完成する。当時の本屋は仲間以外の出版物を扱わなかったので、販売面でも苦労し、年頭には予約購読者を訪ねて挨拶(あいさつ)して回ったという話も伝わる。
 48歳(1793)江戸・表六番町和学講談所を開設し、後進の教育と、図書・史料の研究調査活動を進めた。温故堂の号は、初め松平定信(さだのぶ)が講談所に命名したもの。『大日本史』の編纂(へんさん)・校訂に協力したほか、『続群書類従』『史料』などの出版も計画したが未完成に終わる。76歳、総検校となる。著書に『花咲松(はなさくまつ)』『武家名目(みょうもく)抄』などがある。『群書類従』の版木1万7244枚は東京都渋谷区東の温故学会に、和学講談所の蔵書は国立公文書館に現蔵。文政(ぶんせい)4年9月12日没(文政5年7月9日公儀に届出)。76歳。墓は東京都新宿区若葉町の愛染院と埼玉県本庄市児玉町の竜泉寺とに現存する。本庄市には記念館があり、生家も保存されている。[梅谷文夫]
『太田善麿著『塙保己一』(1966・吉川弘文館) ▽温故学会編『塙保己一研究』(1981・ぺりかん社)』
大日本百科事典からの引用

・・・塙保己一は、一度読んでもらい、口ずさむと覚えてしまうという天才的な暗記力の持ち主です。日本の歴史上、このように天才的な頭脳の持ち主は幾人か存在します。古事記の口承(歌い継ぎ語り継ぎして、口伝えに語り継ぐこと)をした稗田阿礼。真言密教を日本に伝え、ときの天皇に弘法大師と諱を送られた空海。その他にも、数々の偉人が存在するのも日本人の素晴らしさを現していると思います。
posted by at 22:17  | 塾長ブログ

何故学ぶのか 勤學

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、古来日本人が学んで来た古典の一節なども参考にしながら、学ぶことの意味合いを理解する必要があると考えます。

以前ご紹介した「幼學綱要(ようがくこうよう)」卷之三 勤學第六 には、

人皆天賦ノ徳性アリ。然レドモ學バズシテ能ク道ヲ知ル者無シ。必ズ當ニ先覺ニ就イテ學習シ、道ヲ明メ、行ヲ修メ、以テ其ノ徳ヲ成スベシ。苟モ師トスル所無ク、才ヲ恃ミテ自ラ用フルトキハ、徳ヲ傷ヒ事ヲ傷ル。小技末藝ト雖モ、終ニ成スコト能ハズ。故ニ勤學ハ,己ヲ成シ物ヲ成スノ根柢ナリ。

「人は皆、天から賦与された道徳を弁えた正しい品性がある。しかしながら、学ばずして正しく人の踏み行うべき事を知る者はいない。必ず物事の道理を悟っている人(学問や見識の優れている人)に就いて学習し、道を明らかにし、行を修め、以ってその徳(品性)を高めなければならない。もしも師とする所無く、生まれつきの能力を当てにし、自分本位で行動すれば、徳(道徳的品性)を傷(そこ)ない、事(事柄、事態)を傷る。小技末藝(ちょっとした技術や簡単な藝)とはいえ、最終的に全うすることは出来ない。故に、勤學(熱心に学問すること)は、自己を成長させ、物事を成就する土台である。」

子供の頃に、何の為に学ぶのか、と自問自答した経験をお持ちの方は多いと思います。それを親、兄弟姉妹、先生、友達、など身近な人に問うこともあるでしょう。其時に答えが出なくとも、いつの日にか悟ることもあります。人は年齢を経てくると、学んでおけば良かったという悔恨が残ります。若い時には、それに気付かない。

だからこそ、将来ある若人に「勤學」の必要を説かねばなりません。

「国民の修身」渡部昇一監修(産経新聞出版)の序文に代えてに、「修身」は人間としての基礎を教えている 渡部昇一 という一文が有ります。

 国があり、家があり、自分がある

修身」という言葉が普及したのは、徳川時代に儒学が普及し、四書(『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』)が各地の藩校などで読まれ、その中でも『大学』の中の教訓を『修身.斉家(せいか)・治国(ちこく)・平天下(へいてんか)』という言葉に要約したものが、主として武士階級の人々に記憶されるようになったからである。

 この『大学』の言葉は支配階級の人たちの心がけの順序として教えられたのであった。天下を治めようとするなら、まず自分の国(領地)をよく治めなさい。自分の国を治めるには、まず自分の家をよく平和に保つように斉(ととの)えなさい。自分の家を斉えるには、まず自分自身が修養して立派な人格を作らなければなりませんということである。これは朱子学のエッセンスとして受け取られた。

 中江藤樹(なかえとうじゅ 一六〇八〜四十八)は十一歳の時、初めて『大学』を読み、「天子ヨリ庶人ニ至ルマデ、一ニコレミナ修身(身ヲ修ムル)ヲモッテ本(モト)トナス」という所に至るや、深く感嘆して涙を流したという。それは徳川家康が亡くなってから二、三年後の話である。

 当時、庶民も天子も、人間としての基礎になるのは同じこと、つまり修身なのだと感奮したのである。そして彼自身は近江聖人(おうみせいじん)といわれる人物になったのだった。

 また荻生徂徠(おぎゅうそらい 一六六六〜一七二八))は少年の頃、南房総に父と共に流落しており、学問の師となる人もいなかったが、たまたま父(将軍綱吉の侍医だったが流罪)の持ち物の中に『大学諺解(げんかい)』があった。

諺解というのは和文の注釈である。彼はこの本一冊を十二年間読み続け、その為後に江戸に戻ってみると、他の漢籍を注釈なしに読めるようになっていたという。こうした逸話が伝えられるほど、『大学』は普及しており、その『経一章(けいいっしょう)』に述べてある修身の大切さを学んだのであった。

今、教育に憂いを持つ人と語るとき、一意専心に学ぶことを、なぜ教育に携わる先生と名のつく人たちが若人に伝えないのか、と憤ることが有ります。コレは、所謂「学校」と名のつくところは無論、職場など持ち場持ち場で後輩に何かを伝えていくべき立場の方も同様です。何かと学ぶ為に必要なこととして、敢えて強いる必要のある場合、辛抱することができない若人を放置しておいて良いのか、と。

「我慢」「辛抱」という言葉を、経験として学ぶよう後代の若人に伝えなければ、どれほど軟弱な、生きる術を見出せない世代を作ることになるのでしょうか。

そうならない為にも、子を持つお父さん、お母さん方には、我が子を厳しく、且つ愛情を持って叱咤激励して頂きたいものです。「良薬は口に苦し」「艱難汝を玉にす」という諺は、いつの時代にも「甘やかす」親への戒めとして残された名言であるはずですから。厳しく接する事が出来るのは親の「伝家の宝刀」でもあり、「義務」でもあると考えます。

posted by at 00:02  | 塾長ブログ

音読と書見台 歴史散歩 平戸5

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、幼児期から姿勢を正しくして音読する習慣をつけることが大事であると考えています。

前号までの一連の「歴史散歩 平戸」。まだまだご紹介したいことが沢山有りますが、学問をし続けることが、藩主の務めの一つと思わせる松浦資料博物館(http://www.matsura.or.jp)の収蔵品が有ります。

見台

 

これは、いわゆる書見台です。「見台(けんだい)(Reading Stand)・・・書見する台のことで、上部の斜め台の上に書物を置き読書を行なった。」と説明書きに有ります。黒漆に蒔絵が施された立派なものです。

黒塗短檠

読書時の灯明台です。「黒塗短檠(くろぬりたんけい)(Lacquered Light Stand)・・・短檠は高さの低い灯明台で、照明器具。当資料の下部にある焼き物は油入れとなっており交趾焼(現在のベトナム)である。」 当時は、室内照明の主力は油です。灯明皿に油を注ぎ、藺草(いぐさ)の芯を抜いて作られた「切り灯芯」をのせ、「掻き立て」という灯芯を押さえてあかりの調節に使うものをのせ、灯芯に火をつけます。

「読み」は、書見台に向かい正座。「書き」は、毛筆で正座。かっての日本人が学ぶときには「正座」が基本です。正座は腰を立てる(立腰:りつよう)ことで、心身に良き効果を与えます。現在、ほとんどの子供さん達は、座り机(正座など座った姿勢で用いる低い机)で学ぶ機会はほとんどないでしょう。従って、椅子に座って机に向かうと、よほど注意をしない限り、腰や背中が曲がった状態で学習をすることになります。結果、目が近くなり近視になりやすくなります。

学習の効率を上げ、中身の濃いものにするには、学ぶ環境づくりが大切です。筆者は、座り机で正座をして学ぶ経験もしましたが、その時以降、卓上型の書見台を用いていました。

腰を立て、背筋を伸ばして学習できる環境を作ることは基本中の基本です。

 

posted by at 20:07  | 塾長ブログ

祖母の教え 歴史散歩 平戸4

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、幼児期の躾や教育の重要性を常々指摘していますが、この度の歴史散歩に訪れた松浦資料博物館(http://www.matsura.or.jp)にも、その貴重な資料を見付けました。

「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし。」の言葉で有名な松浦青山(1760~1841:大著『甲子夜話』を著した文武両道の平戸藩第九代藩主)。

平戸藩世嗣・松浦政信の長男として生まれ、父の早世に伴って静山は、12歳で祖父・誠信(八代藩主)の養嗣子となり、16歳で家督を相続。
柳生石舟斎から新陰流兵法を伝授された徳川家康など、江戸初期以前には武芸達者な将軍や大名も少なからずいたが、静山は江戸中期の泰平の世にあって「心形刀流」を究めて印可を受けた。そのほか弓・馬・槍術や柔術まで武芸全般の修行を積んだ経験を持つ。

幼い頃から記憶力に優れ学問を愛した静山ですが、いつまで生きられるかと危ぶまれるほどに病弱でした。その虚弱な体質を克服するため、教育にあたった祖母が文武両道を説いたとされます。その祖母夫人 久昌院の訓戒書が掛け軸として遺されています。

松浦清(静山)候祖母婦人久昌院 訓誡書

 

その内容は(上記写真上段)、

一 神仏常に御信心御志の御こと

一 ご先祖御大事に御心がけの御こと

一 物ごと御堪忍第一の御こと

一 諸人にあいきょうなければ何事も諸願成就なりがたし

一 上として下町人などより必ずに金銀決してお取りなされまじく候、上の好み候ところより下取り入りたがり候世の中に御座候まま、ところ御心ずけらるべく候

一 第一氣丈夫に御持ちなられ候御こと

一 御身御養生第一にござ候、ほかの病氣は養生次第あい直り候えども不養生の病氣仏神の祈祷、薬にても直り申さず候、とかく不養生なき御こと第一にござ候

一 ほめ候者はわがあだなり

一 そしる者は我が師なりと申すことござ候

一 とかく物ごと氣長にお心得なさるべく候、氣ぜわしくござ候は養生にあいなり申さず候

一 万民おあわれえみの御志第一にござ候、召使われ候者もとかくへだてなくお使いになられるべく候、この趣たえずお心にかけられ候えかしと心ずき候まましたためあげ申し候、めでたくお家御相続ならるべく候、めでたく候

吉日

と、あります。十一条後段に祖母婦人久昌院の切なる心遣いが表れていますし、大切に育ててきた孫君が無事家督相続出来たことを寿いでいます。江戸の商家出身の祖母がさばけた性格で、大名家の教育方法に固執しなかったのが幸いしたとも言われています。

その幼児期からの教育宜しく、

清(静山)、が藩主となった頃、平戸藩は財政窮乏のために藩政改革の必要に迫られていました。このため清(静山)は『財政法鑑』や『国用法典』を著わし、財政再建と藩政改革の方針と心構えを定めました。そして経費節減や行政組織の簡素化や効率化、農具・牛馬の貸与制度、人材の登用などに務めています。

更に、安永八年(1779)藩校・維新館を設立して自ら学を講じるとともに武芸の普及を図ります。また藩政の改革を進めるため、身分にとらわれない人材登用も行いました。47歳で家督を三男に譲って隠居し、以後は執筆活動に従事。1821年の甲子の日の夜に起草した『甲子夜話』は亡くなるまで毎夜書き足され、278巻に及びます。

 

甲子夜話(長崎県指定文化財)

 

 

上記写真の説明書きには、

「甲子夜話」は静山が隠居後の文政4年(1821)、師である儒学者林述斎(1768〜1841)の勧めにより、天保12年(1841)に死去するまでの20年間にわたり家橘ずったものである。合計278巻に及ぶ膨大な著書となった。分野は当時の自然現象、社会風俗、人物、法制、宗教、外国関係、狐狸妖怪など広範囲におよんで記述されており、江戸時代を代表する情報誌、随筆集として賞賛されている。大塩平八郎の乱、シーボルト事件、鼠小僧の活動の様子なども詳細に記されており大変興味深い。

と、あります。

現在まで続く、松浦家の名君静山を育んだ幼少期の教育

十一条の訓誡それぞれに意義があります。

神仏の信心、先祖の尊重、堪忍(耐え忍ぶこと)、愛敬(愛し敬うこと)、氣丈夫(心や精神の強さ)、養生第一(摂生:適度な飲食、規則正しい日常生活の心掛け)、褒め言葉は仇(害悪)、謗りは師、気持ちを気長に保つ、人と分け隔てなく接する

・・・これらは、現在の幼児期の教育にも必要です。当然、それを伝える親御さんから日々実践すべきことでもあります。

 

 

 

posted by at 09:04  | 塾長ブログ
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