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英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 21

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、夏休み期間中の塾生の海・山・旅の体験談を聞かせて貰うことがあります。子供の頃の体験は新鮮です。長じてからも、ふとした時に思い出すような様々な経験を沢山して欲しいものです。

唐比の水蓮

八月九日は長崎の原爆忌です。

昭和二〇年八月六日の広島に続いて、人類史上最悪の戦争犯罪が行われた日です。長崎では、夏休み期間中の小・中学校の登校日で所謂「平和教育」が毎年繰り返されます。

さて、「英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズから、「もっと知りたいコラム」をご紹介です。(『新しい歴史教科書』(新版・中学社会)(自由社)英訳シリーズ その11)http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter-5-Section-2.pdf

I WANT TO KNOW MORE ABOUT… The International Laws of War and War Crimes

Approaches to the international laws of war

Throughout our long history, human societies never stopped waging wars against one another due to conflicting national or ethnic interests, and these wars always occasioned horrible atrocities. Consequently, the idea came about to set international standards on how wars could legally be conducted. These rules are known as the international laws of war. One of the most influential treaties on the international laws of war was the Hague Land War Convention, signed in the Netherlands in 1907 (Meiji 40).

The killing or wounding of non-combatant civilians and mistreatment of soldiers taken prisoner are designated as war crimes and therefore illegal under the international laws of war. In addition, it is prohibited to arm civilians and have them participate in fighting without military uniforms. If non-uniformed combatants are captured, it is permissible to punish and even execute them as spies or guerrillas following legal proceedings.

The greatest war crime of the twentieth century

Unarmed civilians were targeted and slaughtered en masse in both the Battle of Okinawa and the indiscriminate bombing of major Japanese cities. It has been said that even one of the US B-29 pilots had questioned his commanding officer about whether the proposed Great Tokyo Air Raid of March 10, 1945 (Showa 20), was a violation of international law. During this attack, 100,000 people were burned alive in a single night. As for the atomic bombings, the number of people killed totaled over 200,000 in Hiroshima and over 70,000 in Nagasaki, and these victims were ordinary citizens. Whether measured by their human or material devastation, the atomic bombings could be fairly described as the greatest war crimes of the twentieth century.

The Siberian Internment

On August 9, Soviet forces overran Manchuria and Sakhalin in violation of the Japanese-Soviet Non-Aggression Pact. They were responsible for innumerable incidents of pillage, murder, and rape against Japanese civilians. Even after Japan’s surrender, the Soviet invasion continued. It was in September that the USSR completed its conquest of the Northern Territories, an integral part of Japan. What’s more, though the Potsdam Declaration stipulated that all Japanese prisoners were to be repatriated in short order, the USSR blatantly disregarded this condition and transported more than 600,000 Japanese civilians and POWs to sites in Siberia where they were made to do brutally hard labor and denied adequate meals. Among those Japanese interned in Siberia, the officially recorded deaths alone exceeded 60,000 people.

Because the Allied Powers were the victors of the war, none of their war crimes were prosecuted.

The war crimes of the Japanese military

The Japanese military was also responsible for the mistreatment and unlawful killing of captured enemy soldiers and unarmed civilians within the areas it occupied over the course of the war. The Allied Powers dealt severely with Japanese war criminals, sentencing nearly one thousand of them to death. However, there were some cases of Japanese soldiers having been wrongfully convicted and executed for crimes that they had not committed.

 

もっと知りたいコラム

戦時国際法と戦争犯罪

● 戦時国際法の考え方

人類は長い歴史の中で国家や民族の利害の衝突から、絶え間なく戦争をしてきたし、残酷な出来事も絶えませんでした。そこで、戦争のやり方を国際的に決めようという考えが生まれました。このルールを戦時国際法と言います。1907(明治40)年にオランダで締結されたハーグ陸戦法規は、そのルールの代表例です。

戦時国際法では、戦闘員以外の民間人を殺傷したり、捕虜となった兵士を虐待することは、戦争犯罪として禁止されました。一方、軍服を着ていない者に武器を持たせたり、戦闘に参加させることは禁じられ、それを捕らえた側には、一定の手続きの後、スパイやゲリラとして処刑することも認められていました。

● 20世紀最大の戦争犯罪

沖縄戦でも、本土の大都市への無差別爆撃でも、非武装の民間人が標的にされて大量に殺害されました。1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲の攻撃命令を受けたB29のアメリカ人パイロットは、「それは戦時国際法違反ではないか」と司令官に問い質したと言われています。東京大空襲では、一夜にして10万人が焼け死にました。原爆投下による死者は、広島で約20万人以上、長崎では約7万人以上で、その犠牲者は一般市民でした。原爆投下は、その被害の規模においても、20世紀最大の戦争犯罪と言えるでしょう。

● シベリア抑留

8月9日、ソ連は日本との中立条約を破って、満州・樺太に侵攻し、日本の民間人に対して略奪、暴行、殺害を繰り返しました。ソ連は日本の降伏後も侵攻をやめず、日本固有の北方領土の占領を終えたときには、既に9月になっていました。更に、捕虜は即座に帰国させるとしたポツダム宣言の規定に違反して、捕虜を含む60万人以上の日本人をシベリアなど各地に連行し、満足な食事も与えないまま残酷な強制労働に従事させました。そのためにわかっているだけで6万人以上の日本人が死亡しました。

これら戦争の勝者である連合国側の戦争犯罪は、一切、裁かれることはありませんでした。

● 日本軍の戦争犯罪

日本軍も戦争中に侵攻した地域で捕虜となった敵国の兵士や非武装の民間人に対し、不当な殺害や虐待を行ったこともありました。連合国軍は、日本軍の犯した戦争犯罪を厳しく裁き、1000人に近い人が処刑されました。その中には無実でありながら、誤った判決で処刑された人もいます。

 

・・・一般に、小・中学校の授業では、戦争について先生方が客観的な解説をすることはありません。日本史などで、「戦さ」「乱」について教科書に記載があれば、サラッと述べる程度です。しかし、現実の世界を見渡せば、現在も世界各地で戦争や紛争が進行しています。子供達に、国際政治の現実を知らしめないことが是か非かは、各家庭の親御さんが決めることです。

客観的な事実を見極めることはなかなか難しいものです。しかし、ある事実について、立場の違いで意見や考え方が大きく異なってくるということを教えることは、子供達の論理的な理解を深める意味でも大事なことではないでしょうか。

posted by at 07:44  | 塾長ブログ

長崎大学教育学部附属小学校児童のつぶやき

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、暑い夏にも関わらず塾生が元気に夏期講習に通塾しています。当塾では、それぞれの目標や為すべき学びを粛々とこなしていきます。

あるとき、塾生の一人と筆者が話をしていますと、「勉強をいつまでしなければならないか」という話題に及びました。その塾生は毎日学校へ元気に通い、学校生活を満喫しています。通常の学校の勉強もしっかり取り組み、読書好きです。出来ればずっと本を読みたい、という思いから、所謂「勉強」をサッサと済ませたい。そんな中での質問です。・・・その回答は想像にお任せして、ネット上で以下の記事が目に入りました。

諸葛亮の羽毛扇に秘めた物語

http://www.epochtimes.jp/2018/01/30458_amp.html?__twitter_impression=true

諸葛亮の画(ウキペディアより)

中国の三国時代、蜀の劉備に仕えた軍師・諸葛亮。天文学や地理、兵法に通じ、神のごとく敵を翻弄する戦術で稀代の大天才と謳われた。諸葛亮の幼少時代については謎が多いが、中国ではこんな伝説が残っている。

 諸葛亮が8、9歳の時、まだ喋ることができなかった。家は貧しく、父は彼に近くの山で羊の放牧をさせていた。

 その山の中に道教の寺院があり、白髪の道士が住んでいた。道士は毎日寺院を出て散歩し、諸葛亮に会えばあやすように話しかけていた。諸葛亮は道士の話に身振り手振りで一つ一つ楽しそうに答えた。

 道士は諸葛亮のことが気に入り、彼の病を治して言葉が話せるようにしてやった。「家に帰ってあなたの両親に、私の弟子になるということを伝えなさい。読み書きや天文地理、陰陽八卦、兵法などを教えよう。ご両親がそれに同意したならば、毎日ここに勉強しに来なさい。一日も怠けてはいけない」。

 それから諸葛亮は道士に弟子入りし、雨の日も風の日も、毎日山へ行って教えを請うた。諸葛亮は勉強に励み、一度目を通した文章は全部憶え、一度聞いた話はしっかりと記憶した。道士はますます諸葛亮のことが気に入り、熱心に教えた。

 7、8年が過ぎたある日、諸葛亮が山から帰宅する途中、小さな荒れたお寺を通る時に突然、豪雨に見舞われた。諸葛亮が雨宿りをするために急いで寺に駆け込むと、一人の若い女性が諸葛亮を寺の中に招き入れた。ふと見ると、この女性は細長い眉に美しい大きな目をしており、まるでこの世に下りてきた天女のようだった。諸葛亮が寺から出ようとした時、彼女は微笑みながら言った。

 「今日、私たちはご縁があって知り合いになれました。これからは山へ行く時も山から帰る時も、喉が渇いたり疲れたりした時には、いつでもこちらでお茶を飲んでお休みください」。

 諸葛亮は寺から出ると、「今まで一度もここに人が住んでいたのを見かけたことはなかったのに」と不思議に思った。

 それからというもの、諸葛亮はよく寺に来るようになった。女性はいつでも優しく、手料理を作ってもてなしてくれた。食後、二人は談笑しながら囲碁や将棋に興じた。道士のところに比べると、この寺は非常に心地よかった。諸葛亮はこのころから勉強に身が入らなくなり、考えもまとまらず、道士が話したことはすぐに忘れてしまうようになった。

 道士は諸葛亮の様子に落胆し、ため息をつきながら「木を潰すのは容易だが、育てるのは難しい。私は随分と長い時間を無駄にしたようだ」と嘆いた。

 諸葛亮は道士に頭を下げ、「私は師父からの恩に背くことは決して致しません」と話した。道士は諸葛亮を見ながら、「私はお前が賢い子だと思い、必要とされる人間に育てるために病気を治し、弟子にしたのだ。数年前のお前は賢く、努力家だった。しかし、今のお前は怠け者に変わってしまった。こうなれば、いくら賢くても意味はない」と話した。

 さらに道士は、「風が吹かなければ、木は揺れない。船が揺れ動かなければ、水は濁らない」と述べ、庭にある藤に巻きつかれた一本の木を指差した。「あの木は、どうして元気がなく成長できないのか分かるだろうか?」

 「藤に強く巻きつかれているからです」と諸葛亮は答えた。

 道士は、「石が多くて土の少ない山に生えた木は成長するのが難しいが、一所懸命に根をおろし、枝を伸ばして、暑さにも寒さにも負けない頑丈な木に成長する。一方、藤に巻きつかれた木はどうだろうか。強く巻きつけられると、その木は成長することができなくなる。木は、柔らかい藤に巻きつかれるのを一番恐れるのだ」と続けた。

 諸葛亮は頭をたれて、「師匠はすでに、全部ご存知なのですか」と尋ねた。

 道士の顔は厳しくなった。「お前が親しくしているあの女性は、普通の人間ではない。彼女は、もともと天宮の一羽の鶴で、王母の桃を盗んで食べたために天宮から打ち落とされたのだ。人間の世界に来て美女に化け、勉強もせず努力もせず、ただ遊び暮らしている。お前は彼女の美貌に惹かれただけで、怠けている彼女の一面を知らなかったのだ。もしお前も彼女と同じようにふらふらしていれば、一生何も成し遂げられないだろう」。

 諸葛亮はそれを聞いて慌てふためき、これからどうすればよいのかと尋ねた。

 

 道士は言った。「あの鶴は毎晩、夜中の1時に鶴の姿に戻り、天河まで飛んでいって風呂に入る。この時、お前は彼女の部屋に入り、彼女の衣服を燃やしなさい。この衣服は彼女が天宮から盗んできたもので、燃やしてしまえば二度と美しい女性に化けることができなくなる」。

 諸葛亮は、道士の指示通りに行なうことを決心した。出かける間際、道士は諸葛亮に一本の杖を渡した。「あの鶴は、寺が燃えているのを見れば直ちに天河から飛び降りてくるだろう。もしお前を攻撃しようとしたら、この杖で追い払いなさい。このことをしっかりと覚えておきなさい」。

 諸葛亮はその日の夜中の1時にそっと寺まで行き、ベッドの上の衣服に火をつけて燃やしてしまった。

 ちょうどその時、天河で風呂に入っていた鶴は異変に気付き、急いで地上に降りてきた。鶴はくちばしで諸葛亮の目をつばもうとしたが、諸葛亮は道士から貰った杖を振って鶴を地面にたたきつけ、その尻尾を捕まえた。鶴は必至で抵抗して逃げ去ったが、鶴の尻尾の羽毛だけが諸葛亮の手に残った。

 鶴は尻尾の羽毛が無くなったため、天宮の他の鶴たちと形象が違ってしまった。それ以降、二度と天河で風呂に入ることができなくなり、永久に人間の世界に留まって白鳥の群れに混ざって生きていくことになった。

 それからというもの、諸葛亮は勉学に一層励み、この教訓を忘れないために鶴の尻尾の羽毛を保存して常に己を戒めた。それから数年後、道士は諸葛亮に教えを伝え終えると別れを告げた。

 道士は去る間際に、諸葛亮に一つのものを残して行った。それは、諸葛亮がよく着ることになる八卦衣(道士が着る服)だった。

 その後、諸葛亮は道士が自分に授けた教訓を忘れないために、鶴の尻尾の羽毛を使って羽毛扇を作り、常に手に持って慎重に物事に対処するよう心がけた。これが有名な、諸葛亮の羽毛扇の由来である。

(2010年5月31日の記事を再掲載致しました)(翻訳編集・和田美野里)

京劇の諸葛孔明(ウキペディアより)

『三國志演義』での孔明像をふまえて、頭に綸巾を戴き、手に羽毛扇を持ち、身に八卦衣を纏っている姿。

・・・所謂「三國志」は、ゲームソフトにも取り上げられるほどの血湧き肉躍るお話です。諸葛 亮は、支那後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師。字は孔明。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐しました。伏龍、臥龍とも呼ばれます。

posted by at 07:57  | 塾長ブログ

英語と国際情勢

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、機会があれば塾生の年齢を問わず、様々な話をします。歴史、国際情勢、科学等ジャンルを問いません。今すぐに理解しなくても、興味を覚えるといずれ自分の力で調べたりする様になるからです。「英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズを当ブログで時々記すのも、その一環ではあります。

これからの日本を支える若者や子供達は、英語に慣れつつ、日本国内では知り得ないニュースに触れることで国際的な視野を広げる必要があります。インターネット上でのon line news siteを検索すると、様々なニュースを視点を変えて読むことが出来ます。日本の新聞・テレビなどのメディアだけを見ているのは、言わば旧人類と揶揄(やゆ)されかねません。

時々引用する「加瀬英明のコラム」から、まさに日本では流れないニュースをご紹介します。

危機において、何をすべきか スウェーデンが配布した小冊子」(2018/07/23 (Mon))http://www.kase-hideaki.co.jp/magbbs/magbbs.cgi

スウエーデンの位置(ウキペディアより引用)

スウェーデンとロシアの間には、フィンランドの北部が、ひろがっている。

スウェーデンは、人口が1012万人で、フィンランドも平和国家だ。

今年5月21日に、スウェーデン政府は『戦争、あるいは危機において、何をすべきか』と題する小冊子を、スウェーデン国民に配布した。

この小冊子は、国民に「敵国による侵略を蒙った場合に、全員が侵略者に対して、あらゆる手段を講じて抵抗する」ように求め、「もし、わが国が侵略された場合に、国民は最後まで戦い、絶対に降伏しない。抵抗をやめるという情報が流れても、虚偽のものだから、いっさい信じてはならない」と、述べている。

ヨーロッパでは、4年前にプーチン大統領のロシアが、ウクライナからクリミア半島を奪い、東部の内戦に介入しており、ロシアがさらに侵攻するのではないか、緊張がたかまっている。

スウェーデンのバルト海対岸の、冷戦後、ソ連から独立した小国のエストニア、ラトビア、リトアニアを守るために、米英独、カナダ軍部隊が進駐するようになっている。

なぜ、スウェーデンが危機感に駆られているのか、冊子の序文が説明している。

「わが国では長期間にわたって、戦争に対する備えが、限られたものでしかなかった。
しかし、わが国を取り巻く世界情勢が大きく変化しつつあることから、政府は防衛体制を強化すべきことを、決定した。

平時における防衛態勢を確立することが、戦時において国防を強靭化することになる」

もっとも、スウェーデンはロシアがすぐに侵攻してくることを、予想していない。近未来に、アメリカが「アメリカ・ファースト」の世論に動かされて、米軍をヨーロッパから引き揚げてしまう可能性に、備えているのだ。

アメリカの政府国勢調査局は、白人の少子高齢化が進むかたわら、非白人移民の流入によって、2040年代に入ると、白人が人口の50%を割ると予測している。若年人口では、すでに非白人が多数を占めている。

アメリカは1980年に2億2000万人だった人口が、いまでは3億2000万人に達している。とくにヒスパニック系の増加が著しい。

これまで白人が、アメリカが神の使命を授かった国であり、世界を導く責任を負っていると、驕ってきた。非白人が増せば、このような重荷を担う意識が失われてゆこう。

日本はどうだろうか? 米朝首脳会談のお蔭で、金正恩委員長がアメリカを挑発せず、米朝交渉が進められようから、向こう五年は朝鮮半島で戦争が起こらないだろう。

日本は大急ぎで、憲法を修正するとともに、防衛力を画期的に増強する時間を、手にすることができた。天の恵みだ。

日本にとって、北朝鮮は本当の脅威ではない。

万一、北朝鮮が日本を攻撃しても、通常弾頭のミサイルによって、1、2万人の死者が生じるかもしれないが、アメリカが圧倒的な軍事力によって、北朝鮮を壊滅させよう。

日本にとって深刻な脅威は、スウェーデンにとってのロシアに当たる中国だ。

いつまで、アメリカに縋れるだろうか?

福沢諭吉は、「今の禽(きん)獣世界に処して最後に訴うべき道は、必死の獣力に在(あ)るのみ」と説いている。

バルト三国(北から順に、エストニア、ラトビア、リトアニアである。3か国ともに、北大西洋条約機構(NATO)および欧州連合(EU)の加盟国、通貨もユーロでシェンゲン協定加盟国である。)(ウキペディアより引用)

 

・・・日本の戦後教育では、先生が語らない分野が国際情勢(政治・経済・軍事・紛争)です。日本史や世界史では、若者や子供達が知りたい近・現代の分野が授業で語られることがありません。聞くところによると、公立高校などの歴史や政治・経済などの授業で、先生が語ることを生徒がスマホでチックして、その誤りを指摘することもある様です。先生が、ある見解を、立場や視点を変えて客観的に説明していないと生徒からの信頼を得られないということですね。現在の若者達が、呑気な大人達以上に危機感を持っている証左ではないかと考えます。

posted by at 04:28  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 20

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、夏休み期間の講習が始まりました。幼稚園・保育園から小学校へ、小学校から中学校へ、中学校から高校へと進学した際の最初の夏休みを有効活用できるかは、その後の成績の伸びに直結します。お母さん方の動機づけと励ましが大事です。

さて、「英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代 第1節 欧米諸国のアジア進出 の続きになります。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

 

Topic 51 – The Satcho Alliance and restoration of imperial rule

How did the Edo shogunate come to an end?

The Satcho Alliance and movement to overthrow the shogunate

In 1863 (Bunkyu 3), the shogunate purged the Imperial Court of Choshu influence and the extremist court nobles backing the sonno joi movement. It then attempted to bolster its authority by setting up a leadership coalition with the most powerful domains, including Satsuma and Aizu (modern-day Fukushima Prefecture). The next year, Choshu attempted to regain its power by instigating a rebellion in Kyoto, but it was defeated by the shogunate. This was known as the Imperial Palace Gate Incident.

The shogunate followed up by attacking Choshu with a military force led by allied daimyo. The shogunate was victorious in the First Choshu Expedition, and Satsuma replaced Choshu as the dominant influence on the Imperial Court.

Nonetheless, the shogunate’s success was short-lived, as Takasugi Shinsaku refused to accept Choshu’s decision to capitulate. Together with Kido Takayoshi, he launched a rebellion against the government of his domain and restored the anti-shogunate forces to power. Choshu once again became a thorn in the shogunate’s side. Meanwhile, in Satsuma, Saigo Takamori and Okubo Toshimichi were exercising de-facto control of the domain. Having learned from the Anglo-Satsuma War, they focused on acquiring superior weaponry by cultivating close ties with the British.

In 1866 (Keio 2), Sakamoto Ryoma, a samurai from Tosa Domain (modern-day Kochi Prefecture), brought Saigo Takamori of Satsuma together with Kido Takayoshi of Choshu and impressed upon them the need for Japan to become a strong, unified nation-state that could resist the depredations of foreign nations. Though Satsuma and Choshu had been bitter enemies up to then, Sakamoto urged them to put aside their differences and form an alliance. Thanks to the resulting Satcho Alliance, Choshu was able to acquire state-of-the-art weaponry from Satsuma and to use it to decisively defeat the shogunate’s Second Choshu Expedition. Choshu and Satsuma then secretly agreed to work together to destroy the Edo shogunate. Thus, the sonno joi movement evolved into a campaign to overthrow the shogunate.

第二次長州征伐(山口・下関市立長府博物館蔵)

 

51 薩長同盟と王政復古

江戸幕府は、どのようにして滅亡したのだろうか。

薩長同盟と倒幕運動

1863(文久3)年、幕府は、長州藩の勢力と、これと結んだ急進的攘夷派の公家を朝廷から追放し、薩摩・会津(福島県)などの有力な藩を中心とした指導体制をつくった。長州藩は、挽回を試みて京都で挙兵したが翌年、幕府側に敗れた(禁門の変)。

 幕府はさらに、諸藩を指揮して長州藩を攻め、これを降伏させた(第一次長州征伐)。薩摩藩は長州藩にかわって朝廷への影響力を強めた。

 長州藩では高杉晋作が、幕府に屈服した藩政府に対する反乱を起こし、木戸孝允らと藩の主導権を奪い返した。長州藩は再び幕府批判の立場に転じた。薩摩藩では、西郷隆盛大久保利通らが藩政の実権を握り、薩英戦争の経験から、イギリスと接近し、軍備の強化に努めた。

1866(慶應2)年、土佐藩(高知県)出身の坂本龍馬は、外国に対抗できる強力な統一国家をつくる必要性を説き、それまで対抗していた薩長に同盟を結ばせるために、西郷隆盛と木戸孝允を引き合わせた。この薩長同盟で、長州は薩摩から新式の武器を入手し、幕府の第二次長州征伐に反撃し大勝した。薩長両藩は提携して倒幕を目指す密約をした。こうして、尊王攘夷は、倒幕運動へと変化していった。

 

 

・・・中学校の歴史教科書では、上記の様にさらっとした記述しかありませんが、この時代は多くのテレビドラマや映画などで繰り返し取り上げられています。しかし、英語の記述は、なるほどこの様に表現するのか、と興味深いものがあります。この英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズは、中学生のみならず、高校生の英作文に活用できる素材です。英語で論述する際に、この様な英文をしっかり書ける力を持つ必要があります。

小学校で英語が本格的に教科として成績評価される様になりますが、相当に国語力のある(語彙も豊富な)児童でも、英語を合わせて学ぶのは負担が大きくなると懸念しています。漢字のみならず、英単語もしっかり書ける様にするには、工夫が必要になってきます。

posted by at 18:56  | 塾長ブログ

小学校受験、中学校受験の本質

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp は、塾生に何故学ぶのか、何故受験するのか、を考えて日々努力して欲しいと考えます。

幼児期の学びから始まり、小学校受験、中学校受験と義務教育期に於いて挑戦する選択もあるからです。

偶然読んだ記事(東洋経済ONLINE)が非常に示唆的でしたの引用してご紹介します。https://toyokeizai.net/articles/-/229249

中学受験の本質を知らない親に教えたい心得  「今だけ頑張ればいいから」はNGワード」

「中学受験で難関中学に入れれば、東大をはじめとする難関大学への道が近づく」

「大学付属校に入れれば、この先は受験をしなくてすむ」

「だから、今頑張っておけば後がラクになる」

そう考えて、「中学受験」を始める家庭が多い。だが、こんな気持ちで子どもに中学受験をさせようとしているのなら、今すぐやめたほうがいい。なぜなら、今の中学受験は親が思っている以上に過酷だからだ。

難関中学入学=難関大学入学、と直結しないことは誰しもわかっていますが、難関中学に入れば確率が高くなるという思いを持つのは、どの親御さんも同様です。

しかし、挑戦することと、その結果、またその後の推移については、なかなか思うようにならないのが現実です。

大人でも解くのが難しい「入試問題」

一般的に中学受験の勉強は、小学3年生の2月からスタートする。大手進学塾の新4年生のカリキュラムが一斉に始まるからだ。だが、その前に入塾テストというものあり、その結果によって入塾の可否と上位クラスへ入れるかどうかが決まる。そのため、早めの対策を取り、低学年のうちから塾通いをさせる家庭も多い。

4年生では週2日の塾通いも、6年生になると通常授業の他に志望校特訓や模試などが加わり、週5日、ときには毎日塾で過ごすことになる。塾では問題の解き方は教えてくれるが、勉強の進め方までは個別にフォローはしてくれない。年間の学習カリキュラムが固定されているため、その日の授業で習ったことは、その日のうちに覚えることを前提に進んでいく。そのため、知識の定着を図るために塾から大量に出される宿題は、家庭で回していかなければならない。

小学生が習う内容なんて、親でも教えられる。そう思っている人は、ぜひ難関中学の過去問を見て欲しい。いや、中堅校でもいいだろう。多くの親は容易には解けないはずだ。今の中学受験の入試問題は、それほど工夫が凝らされ、難易度が高い。

中学受験が高校受験や大学受験と大きく違うのは、学校の授業で習う内容と入試で出される問題の難易度に大きな差があることだ。また受験には、目標に向かっていつ何をするかといったスケジュール管理が不可欠だが、それが子どもの力だけではできない点も挙げられる。親の献身的なサポートがあってはじめてうまくいくというのが、中学受験の最大の特徴と言える。

4年生になるタイミングで学童代わりに塾に入れる家庭も多いが、そんな甘い考えは捨ててほしい。早くから中学受験を意識してきた家庭でも、「ここまで大変とは!」とその過酷さを思い知らされることになる。だから、中学受験をするなら、親も子も「覚悟」をもって臨まなければいけない。

東京を中心とする関東圏、また教育熱心な関西圏などの難関中学への進学は、よほどの覚悟がないと取り組めないということを、その地域の方はご存知です。それ以外の地域からすると、何故そこまでするのだろうというのが実情です。

受験の目的は「いい大学に入るため」ではない

 

一度覚悟を決めたなら、中学受験をさせること、塾に通わせることに「罪悪感」をもたないほうがいい。罪悪感をもったままだと、どうしても親の口から「これが終わればラクができるから」「今だけ頑張ればいいから」という言葉が出てしまうからだ。

「後でラクをさせたい」と言うのは大抵母親だが、その中でも特に危険なのが「高校・大学受験をしなくていい付属中に」という考え方だ。例えばスポーツや音楽などを集中的にやりたいというような考え方であれば、付属中・高は向いているかもしれない。

しかしそうではない場合、過酷な中学受験の反動から、入学した途端に勉強するのをやめてしまう子も多い。入学時をピークにだらだらと成績が下がり、せっかく身に付けた学習習慣も知識もふっとんでしまっては、その後に困るのは子どもだ。

特に「ともかく付属ならどこでもいい」というような気持ちで学校に入った場合、中学・高校の学力がつるべ落としに下降する危険性がある。大学受験で入学した学生と付属から上がってきた学生を比べると、その学力は雲泥の差。大卒という学歴は同じでも、社会に出てからどちらが苦労するかは明らかであろう。

一方、大学受験で成功している父親がよく言いがちなのは、「大学受験の時だけ集中的にやればいいじゃないか。本当に行きたい大学があるのなら、一浪くらいさせたっていい。小学生の今はのびのびさせてやれ」というもの。この考えを否定するつもりはないが、今の時代、東大や京大、国公私大医学部などの難関大学の合格者は、上位の私立中高一貫校出身者が多くの割合を占めているという現実を忘れてはいけない。

ほとんどの私立中高一貫校の場合、高2の段階で高校で習うすべての範囲を終わらせ、高3の1年間を受験勉強に充てることができるカリキュラムが組まれているからだ。そういう点においては、私立中高一貫校へ入れると「大学受験に有利」であることは否定できない。

だが、中学受験をさせる目的がそれだけなら危険だ。レベルの高い私立中高一貫校に入れば、レベルの高い子ども達に囲まれて、レベルの高い授業が受けられる。

でも、そこで力を発揮するためには、さらに努力をする必要がある。それができる子ども達が多く集まるからこそ、「難関校」は結果的に難関大学への進学率も高くなるわけであって、そうした土台をつくるものとして中学受験があるのだ。

レベルの高い中学に進むことの目的とは、さらに高度で意味のある勉強をして知識を身に付けること、受験勉強の過程で学習の仕方を学ぶこと、そして人間として成長するためであり、「いい大学へ入るため」ではない。中学・高校、そして大学を通じてしっかりとした知識や思考法を身に付けて、社会に出してあげるためだ。レベルの高い学習ができる環境で身に付けた知識や考え方は、子どもの可能性を大きく広げてくれる。だから、小学生の子どもに受験勉強をさせるのは、決して「かわいそう」なことではない。そして、正しく勉強すれば、努力の先にある喜びを得ることができる。

一般に、親御さんは、ご自分の経験で子供さんの進路云々を決めがちです。経験に基づいて上手くいった例、また上手くいかなかった例を参考にしますから、血を分けた子どもも同様だ、と考えるのはある意味で自然です。しかし、親子は姿・形は似ていても、学び方はそれぞれです。

中学受験のメリットとデメリット

受験勉強は、目標に向かって努力をする、計画を立てて実践していく、難問に粘り強く挑戦する、自分の気持ちをコントロールするなど、様々な経験をすることができる。勉強自体は志望校に合格するためだが、たとえ合格できなくても、実社会に出てから必要なもの、どんな仕事に就いても必ず役に立つものがたくさん詰まっている。受験にせよ仕事にせよ、目的を叶えるために今何が必要なのかを考えて努力できる人間になる。これが一番大事なことではないだろうか。

こうした経験を小学校4年から6年の3年間経験することは、子どもの人生にとって大きな糧になるだろう。また、それをサポートする親も一緒に成長することができる。父親、母親、そして子どもが「3人4脚」で中学受験に臨むことができれば、それは非常に強い家族の絆をつくることにもなる。

しかし、それは「正しい方法」で挑戦した場合に言えることだ。勉強のやり方や親の言い方が間違っていたら、ときには子どもを押しつぶしてしまうこともあるし、親子関係や夫婦関係が険悪になってしまう可能性もある。また志望校に合格できなかった時、子どもに不必要な挫折感だけを残すことにもなる。中学受験にはその両面があることを知ってほしい。

・・・受験は、成功しても失敗しても、長い人生を歩む上で、その後の人生のヒントを与えてくれます。

成功体験はその時で終わりです。次へ進むための一里塚でしかありません。

失敗体験も同様です。「失敗は成功の母」というように、その失敗を次の挑戦への糧にすれば良いだけのことです。

結果の如何に関わらず、済んだことに執着せず、前進していくことが大事です。

posted by at 19:01  | 塾長ブログ
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