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学ぶことと視点 歴史散歩 平戸3

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生は何事にも自主的に取り組む姿勢を身につけて欲しいと考えます。限られた時間の中で効率よく行動するのも習慣付けが必要ですし、自ら進んで行えば気持ちの良いものです。

さて、松浦資料博物館で様々な展示物を見ていると、何度か「成る程!」と思わず呟くことがありました。切支丹の歴史もその一つです。豊臣秀吉の禁教令(1587年)による所謂「二十六聖人」の殉教はよく知られています。その後の元和八年(1622)、長崎の西坂での切支丹信徒の同時処刑の絵図は、複製とは言え、なんとも言えない感慨が生じました。

元和八年長崎大殉教図

上図の説明書きには、

元和八年長崎大殉教図 複製 原本:イタリア内務省宗教建造物基金(ジェズ教会)蔵

元和八年(1622)、長崎の西坂で55人のキリスト教徒と宣教師が火刑と斬首で処刑された。この処刑の様子を見ていた日本人の修道士がスケッチし、マカオで完成させてローマに送られたと言われる。殉教する人々の中には女性や子供の姿も描かれている。またこの絵の下部左端には、平戸松浦家の船と考えられる三つ星の家紋が描かれた船が見られる。

・・・とあります。平戸松浦藩のキリスト教との縁は、天文18(1549)年にフランシスコ・ザビエルが薩摩(鹿児島)に来航した後、天文19(1550)年に平戸を訪れることから始まります。時の領主松浦隆信はポルトガル船の来航は貿易面から歓迎しますが、切支丹には好意的ではなく、布教活動が盛んになると軋轢が生じることになります。

その後、江戸初期の寛永14(1637)年の島原の乱を経て、鎮圧1年半後、所謂「鎖国」が始まります。

 

 

ところで、日本の切支丹の歴史を紐解くと、時の権力者の豊臣秀吉や徳川家康による切支丹の信教に対する圧制ばかりが強調されますが、物事にはその裏の事情や背景があります。少なくとも、歴史の教科書レベルでは、触れられていないことが多々あります。

その点を面白い視点で書いてあるコラムを見つけました。週刊新潮の名物コラム「変見自在」(5月24日号)からの引用です。

「隠れの精神」  高山正之(ジャーナリスト・コラムニスト)

ローマはアフロディテの息子アエネアスが建国した。

だからローマ市民はギリシャの神々を信仰した。

シーザーはアポロン神を祀る神官の家柄だった。

ローマは中東、エジプトへと版図を広げたが、ローマ市民は征服先の神々も気が合えばどんどん招き入れて信仰した。

エジプトのイシス神は航海の守護女神として信仰を集め、東方のミトラ神も多くの信者を得た。

どんな神も歓迎したローマ市民だがキリスト教だけはその狭量さがどうにも嫌で受け入れなかった。

使徒ペテロも布教を諦めてアッピア街道を下っていくとローマに向かうイエスとすれ違った。

「主よ、いずこへ(クオパディス)」とペテロが問う。主は答えて「お前が諦めたローマに行く」とあてつけた。

そう言われたらペテロもしょうがない。ローマに戻り、捕まって逆さ十字の磔で苦しんで死んでいった。

殺されても信仰を捨てるなとイエスは言う。その狭量さをペテロも最後は憎んだことだろう。

そういう受難を喜ぶ変態性ゆえにキリスト教は300年を耐え抜き、ローマの国教に認められた。

途端に不寛容な性格が剥き出しになる。イシス神を叩き潰し、ギリシャの神々も追い、その聖地デルフォイは破壊されてキリスト教の教会が建てられた。

ミトラ神も破壊され、この神の誕生日12月25日はイエスが横取りした。

神々を殺し尽くしたキリスト教徒は海を歩いて渡れるイエスの奇跡を吹聴した。

それを聞いてアレクサンドリア図書館の女流学者ヒュパティアは「迷信を真実と教えてはならない」と厳しく批判した。

怒った信徒が彼女を襲い、裸にして牡蠣の貝殻で彼女の肉を削って殺した。

信徒たちは図書館も焼き払い、ギリシャ文化が育んだ数学、科学、哲学はこのとき完全に消滅した。

キリスト教の天下が始まると、そこは不寛容宗教だから些細な教義の違いも許せない。喧嘩して、カソリックと東方正教会が分裂し、新教旧教に分かれ、お互い殺し合った。

再洗礼派はどちらからも憎まれて殺された。

ローマ市民はネロが偉かったことを改めて痛感したがもう手遅れだった。

そんな忌まわしい宗教がやがて日本にもきた。信長は八百万(やおよろず)の神々にもう一人増えてもいいと思った。

しかし布教が許されると伴天連(ばてれん)どもはローマでやったのと同じに毘沙門天も八幡様も悉く打ち壊し、坊主たちを刻んで殺した。

伴天連は切支丹(キリシタン)大名に戦争をやらせ、日本にはなかった捕虜を取ることを教えた。捕虜は海外に奴隷として売り払った。キリシタンはビジネスでもあった。

秀吉は怒った。伴天連に奴隷商売をやめろと言った。神社やお寺とも仲良く暮らせ、さもないとこの国から追い出すと言った。世に言う伴天連追放令だ。

イエズス会のコエリヨはそれを鼻で嗤い、切支丹大名を糾合して秀吉を倒そうとまでした。

秀吉の跡を継いだ家康も同じ思いだった。民に棄教を勧め、家光の時代までかけてキリスト教を日本からきっちり追い出した。

ローマもできなかった特記すべき偉業だった。おかげで日本では現代に至るまでつまらぬ宗教戦争は一度も起こらずにすんだ。

信徒の多くは棄教してまともになったが、五島列島の一部の人たちは慈母観音をマリアに見立ててひっそり信仰を続けた。

イエスは苦難の道を歩め、ペテロの如く死ね、それが正しい信仰だと言った。

だから「隠れ」信仰などイエスの中にはあり得ようもなかったが、彼らは気にしなかった。ひっそり信仰していればいい。表に出て八幡様の社に火を放ち、磔にかかることが信心とは考えていない風だった。

世に言う「隠れ切支丹」が今度ユネスコの世界文化遺産に登録される。

日本は野蛮、切支丹迫害の象徴のように言って喜ぶ連中もいるが、むしろ「隠れ」の精神こそ狭量で殺し合い好きのキリスト教徒が学ぶべき形ではないのか。

posted by at 19:30  | 塾長ブログ

学ぶ姿勢 歴史散歩 平戸2

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、小学校就学前の幼児教育が、子供さんが長じるに従って学ぶことに大きな影響を与えると考えています。学ぶ姿勢や学び方を幼児期に身に付けると、自然なかたちでその後も続けていきます。例として、幼児期にしっかりと滑らかに音読することは、文章の正しい理解に繋がります。その良き習慣は、その後も継続していくものです。

さて、松浦資料博物館では、伊能忠敬没後200年記念企画展『伊能忠敬と平戸藩』を平成30年4月1日~6月30日まで開催中です。http://www.matsura.or.jp/2018/04/05/伊能忠敬没後200年記念企画展『伊能忠敬と平戸藩/

因みに、伊能忠敬は長崎にも測量の為、諏訪神社近くの大同庵に投宿しています(その旨を記載した石碑有り 炉粕町7)。

伊能忠敬と平戸藩

伊能忠敬は、千葉県九十九里生まれ。酒造家伊能家の婿養子となり、36歳で名主となり、1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財を投げ打ち米や金銭を分け与えるなど地域の窮民の救済に尽力。忠敬の村は一人の餓死者も出さなかったそうです。非常な勉強家で、独学で暦学を修め、50歳を機に本格的に天文学を学ぶ為に江戸へ出ます。高橋至時に弟子入り。当初、至時は20歳も年上の忠敬の入門を年寄り「道楽」だと思っていましたが、昼夜を問わず勉強する忠敬の姿に感動し、「推歩先生 (すいほ:星の動き測ること)」と呼ぶようになった程だそうです。至時が不在の際は観測機器に精通した間重富から指導を受け、忠敬は巨費を投じて自宅を本格的な天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過の観測に成功します。

その後、様々な経緯の後、1800年(55歳)蝦夷地太平洋岸を皮切りに、1801年伊豆・東日本太平洋側、1802年東北日本海側、1803年東海・北陸地方、1805年-1806年近畿・中国地方、1808年四国、1809年-1811年九州前半、1811年-1814年九州後半、1815年伊豆諸島、1815年、1816年各街道から日本橋までの間を測量するため江戸府内を測量。17年かけての測量のために歩いた距離は、4万キロとも言われています。73歳没。

 1811年-1814年九州の第八次の観測の日程を紐解くと、
 文化8年(1811年)11月25日、一行は九州北部や離島を測量するため江戸を出発。忠敬66歳。年明け1月25日に小倉到着。内陸部を通って鹿児島・山川港に。そして船で屋久島に向かい3月27日に上陸。測量隊は北と南の二手に分かれ、13日間で測量を終える。風待ち後、4月26日に種子島に上陸、半月で測量終了。5月23日に山川港に戻る。その後、内陸部を小倉まで北上、博多、佐賀、島原半島などを測量。今回の測量で2度目の越年を佐世保で迎える。1813年(68歳)の新年、忠敬は「七十に 近き春にぞ あひの浦  九十九島を いきの松原」(69歳の春を相浦で迎えたが、さらに99歳まで生きて測量を続けたいものだ)と詠んだそうです。忠敬は九十九島、平戸、壱岐島を経て対馬に上陸。5月21日に測量を終える。続く五島列島では忠敬が本隊を率い、副隊長の坂部貞兵衛が坂部隊を率いて、東西の海岸を南下。8月15日から長崎半島を一周し、小倉より帰途につく。

九州図

平戸図

上記の地図は、松浦藩所蔵の伊能忠敬作成図の写しですが、現在の地図と比べても遜色ない正確さで記されています。

また、下記のディバイダと象限儀は江戸期当時のオランダ製です。ディバイダは、製図などにおいて円周を等分したり、寸法の転記などに使用される器具。象限儀は、道路の勾配を図るものであり、割円八線対数表(かつえんはっせんたいすうひょう)により道路の斜距離を平面距離に変換する為に利用されたもの。割円八線表(三角関数)は、日本地図作成の測量時に伊能忠敬が携帯していたことで有名です。

ディバイダと象限儀

posted by at 15:48  | 塾長ブログ

歴史に学ぶことの重要性 歴史散歩 平戸1

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、語彙の充実を図るべく、年齢や理解度に応じて、教材を工夫して活用しています。

なかなか機会が無くて訪っていなかった平戸市の松浦資料博物館。想像以上の松浦藩の歴史を垣間見ることが出来ました、長崎市の歴史資料は出島中心ですが、出島に繋がるそれ以前の興味深い歴史を松浦資料博物館は示しています。http://www.matsura.or.jp

松浦資料博物館

その紹介記事からの引用です。

松浦史料博物館は、鎌倉時代から続き、平戸をはじめ壱岐をふくむ長崎県北を治めた平戸藩主松浦家に伝来した資料を保存・公開する長崎県で最も歴史を有する博物館です。建物は、明治26年(1893)に松浦家の私邸として建てられた「鶴ヶ峯邸」を利用しています。

平戸は地理的環境から古代より海外交流の歴史があります。
対外貿易関係やキリスト教に関係する資料、それらにまつわる貴重な古文書類などがあり、多くの研究者も訪れています。そして、海外交流関係に視点がおかれがちですが、収蔵資料はその範囲にとどまりません。

歴代当主・藩主にも個性豊かな人物がいたため、興味深い歴史資料・美術品も多く収蔵しています。その中でも江戸時代後期の平戸藩主であった松浦静山のコレクションは特別です。静山は平戸城内に楽歳堂(らくさいどう)という現在の博物館のような施設を設置しました。そこに当時としても貴重な文物を収蔵します。対象は国内、海外の様々な分野に及んでいます。

それらの多くが現在の松浦史料博物館に受け継がれています。これらの資料は国内のみならず海外の研究者にもその価値が認められつつあります。
貴重な成果が21世紀の今日でも発信されているのです。

・・・この資料館の収蔵物は約三万点とのこと。一部を見るだけでも、歴史的な興味は尽きません。そもそも平安時代嵯峨天皇第18子 融、姓 源氏・家紋三星(松浦家家紋)を賜い臣下に下ることに始まり、壇ノ浦の戦いに平家方として参戦したこと、元寇にも対峙したこと、室町期に遣明船を許されるなど海外交易に関与、ポルトガル船初めて平戸入港、フランシスコ・ザビエル鹿児島より平戸に来ること、豊臣秀吉の九州平定時に領知安堵の朱印状を発給されること、文禄の役・慶長の役での朝鮮出兵、豊臣氏との関係の深かった松浦家の関ヶ原の戦い後の対処、等々、我が国史上名を残す松浦家の系譜です。http://www.matsura.or.jp/rekishi/nenpyo/

江戸時代、平戸藩6万石余りを治めた平戸藩主松浦家は、
その出自が平安時代までさかのぼる大変古い歴史があります。
平家が滅亡した壇ノ浦合戦では水軍を率い平家方として参戦し、
鎌倉時代の蒙古襲来において防戦に参戦した史料があります。

江戸時代の平戸藩領は、平戸島をはじめとして、 おおよそ現在の佐世保市から北松浦半島、壱岐市、五島列島の一部をふくむ範囲です。
鎌倉・南北朝時代における松浦家は、平戸島北部と五島の小値賀(おじか)等を領する「海の武士団」松浦党(まつらとう)の一氏にすぎませんでしたが、室町時代の1400年代半ば頃より松浦党内部において勢力を伸ばし戦国大名となりました。これだけ勢力を伸張させることができた背景には、海外交易による経済的発展と鉄砲等の武器輸入が考えられています。

天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州平定時に、
当時の領主松浦鎮信(法印:1549-1614)がその領地を認められました。
松浦家は文禄・慶長の役では、朝鮮半島に渡海し足掛け7年にわたる激戦に投入されました。

関が原の戦いにより天下人となった徳川家康により江戸幕府が開かれます。
豊臣氏との関係の深かった松浦家は、その動向を疑われたようです。
慶長18年(1613)には完成したばかりの居城(日の岳城:現在の平戸城同所)を
松浦鎮信(法印)自ら放火し焼き払いました。

しかし、徳川綱吉が5代将軍となってから状況が変化し、平戸藩主は幕府内で厚遇されました。将軍綱吉のもと、平戸藩4代藩主松浦鎮信(天祥:1623-1703)・5代藩主松浦棟(1646-1713)は幕府内部で登用され、特に5代藩主棟は外様大名ではじめてとなる江戸幕府の寺社奉行に任命されました。

江戸時代初期「鎖国」以前には、平戸オランダ商館・平戸イギリス商館を開設させるなど、松浦家は外交に通じた大名家でもありました。また、江戸時代後期の9代藩主静山(清)は「学芸大名」ともいわれ、当時一流の文化人として有名です。12代藩主松浦詮の時代に明治維新を迎えます。
これは、平安時代末期より当地域を治めた松浦家の歴史において大きな転換点となりました。

収蔵資料の一部が、ホーム・ページに紹介されています。平戸周辺には旧石器時代の石斧などの発掘物もあり、辿れば様々に歴史的興味の尽きない地域です。歴史好きには堪らない魅力があります。

御所人形(十二支人形) 幕末、孝明天皇から与えられた品。丸々と太った幼児の人形は、腹掛けを身につけており、十二支をそれぞれ手にしている。

第九代平戸藩主松浦清(松浦静山:随筆集「甲子夜話」著者)十一女・愛子は権大納言・中山忠能(ただやす)に嫁ぎ、その次女慶子(よしこ)は孝明天皇の意を得て祐宮(さちのみや、後の明治天皇)を懐妊。その故もあって、松浦家に上記、御所人形(十二支人形)が伝えられています。

posted by at 18:03  | 塾長ブログ

何故、「学ぶ」のか 3

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生のタイプに応じて学び方の助言をしていきます。幼児期にご縁があれば、打つべき様々な手法を活用することが出来ます。小学生、中学生と学年が上がると、日々の課題や宿題の量が増えますから、それをしっかり終えてから、次の段階に進みます。

さて、何故、「学ぶ」のか、について、貝原益軒著『和俗童子訓』(注*)から抜き書きをしてご紹介します。

(注*)『和俗童子訓』は、宝永七年(1710)、益軒が八十一歳のおりに著述されたものです。彼の教育思想が体系的に組み立てられている書物であり、我が国における最初のまとまった教育論書です。総論から始まり、児童心理の発達過程に即する一般教法と、教科内容に即した読書法と手習法とを含み、別に女子教育論をつけ添えたものであり、ほぼ教育活動全分野に説き及んでいます。

 

善に就き悪を去る志を立てよ

いとけなき時より、善をこのんで行なひ、悪をきらひて去る、此(この)志(こころざし)専一(せんいつ)なるべし、此志なければ、学問しても、益をなさず。小児の輩(ともがら)、第一に、ここに志あるべし。此事(このこと)まへにもすでに云(いい)つれども、幼年の人々のために、又かへすがへす丁寧(ていねい)につぐるなり。人の善を見ては、我も行なわんと思ひ、人の不善(ふぜん)を見ては、わが身をかへりみて、其(その)ごとくなる不善あらば、改むべし。かくの如(ごと)くすれば、人の善悪(ぜんあく)、を見て、皆(みな)わが益(えき)となる。もし人の善を見ても、わが身に取て用ひず、人の不善を見ても、わが身をかへり見ざるは、志なしと云(いう)べし。愚(おろか)なるの至(いた)りなり。

父母の恩を、片時も忘れるな

父母の恩はたかくあつき事、天地に同じ。父母なければ、わが身なし。其(その)恩(おん)、報(ほう)じがたし。孝(こう)をつとめて、せめて万一の恩をむくふべし。身の力、財のちから、をつくすべし。おしむべからず。是(これ)父母につかへて、其ちからをつくすなり。父母死して後は、孝をつくす事なりがたきを、かねてよくかんがへ、後悔ならん事をおもふべし。

子供に学問させることをいとう悪風

年わかき人、書をよまんとすれば、無学なる人、これを云(いい)さまたげて、書をよめば心緩(こころゆる)く、病者になりて、氣(き)よはく、いのちみじかくなる、と云(いい)ておどせば、父母おろかなれば、まことぞ、と心得て、書をよましめず。其子(そのこ)は一生おろかにておはる。不幸と云(いう)べし。

習い馴れる力を恐れよ

人の善悪は、多くはなら(習)ひな(馴)るるによれり。善にならひなるれば、善人となり、悪にならひなるれば、悪人となる。然(しか)れば、いとけなき時より、ならひなるる事を、つつむべし。かりにも、あしき友にまじはれば、ならひて、あしき方に早くうつりやすし。おそるべし。

学問する法

師の教えをうけ、学問する法は、善をこのみ、行なふを以(て)、常に志とすべし。学問するは、善を行はんがため也。人の善を見ては、わが身に取りて行なひ、人の義ある事をきかば、心にむべ(宜)なりと思ひかん(感)じて、行ふべし。

・・・「何故、『学ぶ』のかは、上記「学問する法」の一文に、「学問するは、善を行はんがため也」と明確に指し示しています。

人は「学ぶ」ことの意味や、動機を誰かから教えられたり、示されたりするのではなく、年齢に応じて自らが意識していかなければなりません。自得(自分の力で悟ること。自分自身で理解し、会得すること)するしかありませんし、親などの周囲の人もそれまで待ってあげることしかできません。試験や受験の時期があるので、周りはやきもきしますが、当の本人の心に「学び」の火が点かない限り、本当の成績向上には繋がらないのが実情です。

人に『学ぶ」ことをinspire(発奮させる、鼓舞する)するヒントは・・・

見聞を広めること(体験)。

読書。

感動すること。     ・・・でしょうか。

 

 

 

 

posted by at 20:44  | 塾長ブログ

何故、「学ぶ」のか 2

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、学ぼう、学びたいという「啐啄の氣(そったくのき:得難い良い時機)」を如何に捉えるか、が指導者の役割だと考えます。勉学に関しては、無理強いは禁物です。要は、「その氣」にさせることが秘訣です。

「何故勉強が必要?」子供への模範回答(https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180512-00025119-president-life)(President Online 5/12(土))

引用してご紹介します。

■28歳の救急救命医は中高6年間ずっと最底辺の成績

 【2:「勉強以外に夢中」タイプへのアプローチ法】

 「勉強する意味がわからない」という子供の中には、部活や趣味などを優先する「勉強以外に夢中」なタイプもいる。

 ある進学校での中高6年間のほとんどを自分の趣味(ミリタリー系)に費やしたため、学年の成績順位は常に下位10%だった、という28歳の男性は筆者にこう教えてくれた。

 「成績が悪かったのは、学校の定期試験に熱意を持てなかったからです。勉強することの必要性にどうしても納得感が得られませんでした。教師や親から強制されることに反発してしまう性格だったんですね。ただ、大学受験には必要性を感じたので勉強したって感じです。結局、勉強をする理由を見つけるってことが“受験”や“職業選択”には最も重要なことなのかもしれません。その理由を見つけるにはまず、(趣味など)やりたいことを自由にできる、多様な環境が必要なのだと思います」

 彼は“動機付け”ということを強調したが「必要性」を見いだした彼はその後、医学部に合格し、現在は、大学病院の救急救命医として活躍している。

・・・男子は、この様なタイプは多いように感じます。筆者の大学時代の体育界の同輩は、優秀な人物ですが、おそらく父親との軋轢もあってか高校時代に家出を繰り返していたそうです。男子はタイプにもよりますが、「勉強、勉強、と言わないほうが、それなりに悩み、考えながら「学ぶ」べき時機を決定していることが多いようです。無論、「人を見て法を説け」ですから、尻を叩いた方が良いタイプもいます。その見分けが大切です。

posted by at 22:25  | 塾長ブログ
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