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子供達の為に日本を学ぶ 平仮名の歴史

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、幼児期に文字の形をしっかりと覚えることが大事であると考えています。日本語は、片仮名、平仮名、漢字の組み合わせでできています。表音文字の片仮名、平仮名。表音並びに表意文字である漢字を巧みに使うことの出来る民族は世界でも稀有な存在です。

平仮名の成り立ちについて、その意義を歴史を踏まえ丁寧に説明して下さっている書物からのご紹介です。平泉澄著「少年日本史」http://shuppan.kogakkan-u.ac.jp/book/detail/225からの引用です。

平泉澄著「少年日本史」

・・・此の好著は、「少年日本史」(昭和四十五年初版)として子供向けに書かれた日本通史です。総ルビとは言え、現在の高校生レベル以上の日本史の知識、及び豊富な語彙力がなければ内容を理解することは難しいかもしれません。しかし、平泉先生のような方から、此のような日本の歴史や文化、文学的な観点からのお話を伺えれば子供達も幸せではないでしょうか。そこで、原著通り「旧漢字、仮名遣い」のまま(一部変換できない漢字もありますが)ご紹介します。

二四 平假名

(中略)

是(これ)まで我(わ)が國(くに)には獨自(どくじ)の文字は無く、字といえば漢字でありました。ところがその漢字を利用するのに、日本獨特(どくとく)、の方法を用いました。卽(すなは)ち漢字を、支那風(しなふう)に音で讀(よ)む事もありますが、その外(ほか)に今一つ訓(くん)で讀(よ)み、音(おん)と訓(くん)とを自由自在(じゆうじざい)、に使いこなして来たのです。たとえば、「音」という字、「オン」とよめば音讀(おんどく)、「おと」とよめば訓讀(くんどく)です。「山」という字、「サン」とよめば音讀(おんどく)、「やま」とよめば訓讀(くんどく)です。かように音と訓とを自由に使いこなして、支那(しな)の古典(こてん)も、日本風に讀みました。例えば文選(もんぜん)という古い書物を見ても、

「泊湘」を「ささらなみ」とよみ、

「閻閭」を「さとのかど」とよんだのです。

また土佐日記(とさにっき)を見ると、

「棹穿波上月」を、「さをはうがつなみのうへのつき」と読んだとありますし、江談抄(ごうだんしょう)を見ると、

「二月三月日遅々」を、「きさらぎ。やよひ、ひうらうら」と讀むのだとあります。

一層(いっそう)、面白(おもしろ)いのは、音讀(おんどく)と訓讀(くんどく)とを二重(にじゅう)にする讀(よ)み方です。

煙霞(えんか)子細(しさい)とこまやかに、泉石(せんせき)分明(ぶんめい)とあきらかなり、

というのが、その一例で、「仔細」を一度は「シサイ」と音讀(おんどく)した後、も一度「こまやかに」と訓讀(くんどく)しているでしょう。

以上は漢學(かんがく)、詩文(しぶん)の例ですが、佛教(ぶっきょう)の経文(きょうもん)も同様に、音(おん)で読むときは音で讀(よ)みますが、その外(ほか)に訓(くん)で讀(よ)む事も要求せられていました。延暦(えんりゃく)二十五年正月、朝廷(ちょうてい)の規定(きてい)に、僧侶(そうりょ)は、法華経(ほけきょう)と金光明経(こんこうみょうきょう)とを、漢音(かんおん)でも讀(よ)めば、訓でも讀(よ)まねばならぬと定(さだ)めてあります。そこで例(たと)えば法華経(ほけきょう)は、音讀(おんどく)の外に、

そのとき摩訶(まか)伽葉(かせふ)および諸々の大弟子につげたまはく、よきかな、よきかな、伽葉(かせふ)。

と訓讀(くんどく)もしたのです。

このように訓讀はしたものの、假名が無いのですから、その讀み方を覚え、之を傳(つた)えるという事は、大變(たいへん)むつかしく、いろいろ難儀(なんぎ)したでしょう。そこでヲコト點(てん)という事が始まりました。是は、人によって違い、寺によって別々ですが、漢字の周圍(まわり)にいくつか點(てん)を打って、どこに點(てん)があれば、どう讀むという約束を立てたのです。そして大抵は「何」の字の右の肩に點(てん)があれば、「何を」とよみ、右側の中程に點(てん)があれば、「何すること」とよむのです。このような點(てん)をテニハ點(てん)とも云いました。

そのような工夫をこらしても、問題はやはり残り、何か書くのに漢字だけで國語をあらわそうとすれば、古事記(こじき)や日本書紀(にほんしょき)、萬葉集(万葉集)などのように、苦労(くろう)をしなければなりません。

ますらをの 行くといふ道ぞ

おほろかに おもひて行くな

ますらをのとも(九七四)

(勇士の行く道であるぞ、いい加減に考えて、氣樂に、ぞんざいに、行ってはいけないぞ、勇氣ある人々よ)

という歌を作っても、之(これ)を文字に書くとなれば、萬葉人(まんようじん)は、

大夫之 去跡云道會 凡可爾

念而行勿 大夫之伴

と書かねばならなかったのです。これでは書くにも一苦労(ひとくろう)、讀むにはまた大變(たいへん)な苦労、下手をすれば、讀みちがえをするでしょう。

 

そこへ平假名が發明(はつめい)せられたのです。これは漢字を草書體(そうしょたい)で書いているうちに、段々(だんだん)簡単な形となり、また自然に一定の形に落ち着いて出来て来たのです。

 

いー以から、ロー呂から、はー波から、にー仁から、

ほー保から、へー部から、とー止から、ちー知から、

りー利から、ぬー奴から、るー留から、をー遠から、

わー和から、かー加から、よー與から、たー太から、

れー禮から、そー曾から、つー川から、ねー禰から、

なー奈から、らー良から、むー武から、うー宇から、

ゐー爲から、のー乃から、おー於から、くー久から、

やー也から、まー末から、けー計から、ふー不から、

こー己から、えー衣から、てー天から、あー安から、

さー左から、きー幾から、ゆー由から、めー女から、

みー美から、しー之から、ゑー惠から、ひー比から、

もー毛から、せー世から、すー寸から、

 

そして是等の平假名を一つにまとめて覺えさせたものに、古くは「あめつちほしそらやまかはみねたにくもきり」とつづけたものも、ある事はありましたが、結局は「いろは歌」が決定的なものとして勝ちを占め、千年の壽命(じゅみょう)を保って、今日に至っているのです。

 

その「いろは歌」は、誰によって作られたものであるか、不幸にして明瞭ではありません。然しそれは非常な英才でなければ、作れるものではありますまい。すべて四十七字あって、しかも一字も重複していない事を、必要とするのですから、只単語を並べるだけでも、すでにむつかしい作業であるのに、それに意味をもたせて、韻律(いんりつ(リズム))をつけて、假名の手本であると同時に、立派な詩とした手際(てぎわ)は、凡人ではありますまい。

 

色(いろ)は匂’にほ)へど 散(ち)りぬるを

我(わ)が世(よ)誰(たれ)ぞ 常(つね)ならむ

有爲(うゐ)の奥山(おくやま) 今日(けふ)越(こ)えて

淺(あさ)き夢(ゆめ)見(み)じ 醉(ゑひ)もせず

詩の内容から見れば、明瞭(めいりょう)に佛教(ぶっきょう)の思想ですから、僧侶が作ったものとして良いでしょう。僧侶の中でも、よほどの英才(えいさい)で、才氣(さいき)かがやき、詩情溢(しじょうあふ)るる人でなければなりますまい。大江匡房(おおえのまさふさ)は、今より九百年ばかり前の人で、當時(とうじ)第一流の學者として尊敬(そんけい)せられ、八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)も、就(つ)いて教(おしえ)を受けた碩學(せきがく)ですが、その大江匡房は「源信(げんしん)僧都(そうず)が、『いろは歌を作られたのは弘法大師(こうぼうだいし)である』といわれた」と人に語っています。源信は空海(くうかい)とは反對(はんたい)に、叡山(えいざん)の名僧ですから、「いろは歌は弘法大師の作」と、叡山でも認めていたことが分かります。然し空海と源信とでは、その間に百数十年のへだたりがあるので、之を決定的な證據(しょうこ)とは出来ませんが、大江匡房といい、源信といい、いずれも第一流の學者が、「いろは歌は弘法大師の作られたもの」と信じていた事は確かです。

 

それに今一つ、證據(しょうこ)として良いものが、凌雲集(りょううんしゅう)という古い漢詩集(かんししゅう)にあります。それは弘仁(こうにん)五年(西暦八一四年)に作られたもので、従って空海の生きているうちのものです。仲雄王(なかおおう)が、空海を閑静(かんせい)、な寺に訪ねて、その人柄(ひとがら)と功績(こうせき)とに感激して作った詩の中に、「字母(じぼ)、三乗(さんじょう)を弘(ひろ)め、眞言(しんごん)、四句(しく)を演(の)ぶ」とあります。その四句は、「いろは歌」をさすものと判斷せられますから、「いろは歌」は、空海の作で、しかも弘仁五年より前(そして大同元年歸朝(きちょう)以後)に出来たものと考えられます。

空海には、いろいろと、功績が澤山(たくさん)ありますが、然(しか)し萬人(ばんにん)がその恩惠(おんけい)にあずかり、千年を經(へ)て盡(つ)きないものは、此の「いろは歌」を作ったという事でしょう。

・・・如何でしょうか。  此の様なお話を幼い頃から聞いて育っていると、その時には分からずとも、必ず長じれば得心すること請け合いです。日本人は古来から曾祖父母、祖父母、父母。また、先学(学問上の先輩)、先生から、連綿と文化・文学・歴史を習い覚えてきた民族です。その素晴らしい伝統を受け継ぐべきではないでしょうか。

posted by at 19:31  | 塾長ブログ

大学入学共通テスト 全国立大学が外部の資格・検定試験を併用

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生の長所・短所を見極めながら、より良く学ぶ力をつけて欲しいと念願しています。

さて、新聞紙上では大学入試改革の記事がしばしば紹介されています。子供を持つお母さん方も将来の我が子の姿と重ね合わせて、大学入試の先行きを意識せざるを得ません。産経新聞(2018.4.30)からのご紹介です(http://www.sankei.com/life/news/180430/lif1804300001-n1.html)。

 

全国立大で検定と記述式を活用へ 共通テスト

 2021年1月から大学入試センター試験に代わって実施される「大学入学共通テスト」では、国語と数学に記述式問題を導入するとともに、英語では筆記とリスニングの他、「聞く・読む・話す・書く」の4技能をすべて評価するため、大学入試センターが認定した外部の資格・検定試験(受験の年の4~12月に2回まで)を併用することになっています。

結果をどう活用するかは各大学に委ねられていますが、国立大学協会(国大協)は、一般選抜で両方を全受験生に課すとするガイドラインを策定しました。他の公私立大学にも、大きな影響を与えるものと見られます。

記述式は一般選抜の全受験生に

ガイドラインでは、まず資格・検定試験について、5教科7科目と同様、一般選抜の全受験生に課すことを確認。

具体的には、(1)一定水準以上の認定試験の結果を出願資格とする(2)CEFRによる対照表に基づき新テストの英語試験の得点に加点し、点数等の具体的な設定は各大学・学部等が主体的に定める…のいずれか、または両方を組み合わせて活用するとしています。

CEFRとは、「ヨーロッパ言語共通参照枠」のことです。外国語を教えたり学んだりする際にどれだけ使える力があるかを、A1~C2の6段階で示したものです。Aは「基礎段階の言語使用者」、Bは「自立した言語使用者」、Cは「熟練した言語使用者」で、それぞれ1が下位、2が上位です。中央教育審議会は、2022年度までに中学校卒業段階でA1レベル相当以上、高校卒業段階でA2レベル相当(英検準2級等)以上を達成した生徒の割合を50%以上にすることを国の目標に盛り込むよう答申をまとめています。資格・検定試験のスコアを文部科学省が作成したCEFRと対照させることで、受験生がいろいろな資格・検定試験を受けていても、同一基準での活用が可能になるわけです。

一方、国語の記述式問題は段階別で成績が表示されますが、国立大学ではこれを点数化し、マークシート式の得点に加点することを基本にするとしています。数学はもともとマークシート式問題と一体で出題されるため、同センターの配点に従います。

入学後にも必要な能力

ところで国大協の方針をめぐっては以前、資格・検定試験の配点を最大でも1割弱にするとの一部報道がありました。しかし最終的には先に見た通り、各大学の判断に委ねられています。

東京大学は、福田裕穂副学長(入試担当)が3月の記者会見で、資格・検定試験のスコア提出は求めるものの、合否判定には使わない考えを表明していました。ただ、これは国大協がガイドラインを公表する前です。

その東大も、4月から学生の「国際総合力」を伸長させるため、認定制度「Go Global Gateway」を始めました。五つの要素で構成される国際総合力の第1には「コミュニケーション能力」を挙げています。資格・検定試験で問われる4技能が、たとえ入試段階ではそれほど評価されなかったとしても、入学後に必要になってくることは間違いありません。

記述式も、大学教育で求められる思考力・判断力・表現力が備わっているかどうかを測るものです。配点などに惑わされず、今からしっかりと高校の授業で取り組みたいものです。

・・・結局のところ、各大学は優秀な学生を集める為に様々苦悩をしているわけですから、入試改革の一環として資格・検定試験を導入するとしても、それが優秀な学生を見極める物差しになるかは未知数です。子供を育てる親の立場からすると、常に制度は変わるものと達観して、幼児期から「考える力」「聞く力」「伝える力」を如何に涵養(かんよう:水が自然にしみ込む様に、少しずつ養い育てること)していくか、です。

posted by at 07:44  | 塾長ブログ

母の味 Audrey at Home Memories of My Mother’s Kitchen

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、4、5月の連休中も通常通り「学び」に勤しんでいます。

さて、かって子供であった全ての人はお母さんの手作りの料理、所謂「御袋の味」を懐かしむことがあると思います。人間の五感は時として一瞬にしてタイムスリップさせるかのようなことを惹起します。その中でも、嗅覚は格別で「懐かしさ」とともに蘇る印象は鮮烈です。その香りや匂いは、幼児期なのか、少年少女期かを問わず、母親の後姿や声音までも思い出させてくれます。

オードリー at Home

ネットで見つけた書物は、筆者の興味を引きました。「永遠の銀幕スター」(古色蒼然たる表現ですが・・・)Audrey Hepburn(オードリー・ヘプバーン)の、息子さんが著した書物。「オードリー at Home](原題:Audrey at Home Memories of My Mother’s Kitchen-With Recipes,Photographs and Personal Stories )です。

映画が好きで美味しいものが好きな方必見。

キャッチ・コピーは、

今なお世界を魅了し続ける女優オードリー・ヘプバーンが愛したものに思いを巡らせ、息子ルカ・ドッティが語る母の生涯。彼女の最愛の子ども達、友人、動物達と過ごした日々を、50種類のお気に入りのレシピと250枚以上の家族写真、思い出の品、プライベートなエピソードの数々で描き出す。真のオードリーの家庭の姿がこの一冊に。

オードリーと母エラ・ファン・ヘームストラ男爵夫人

 

パスタ・アル・ポモドーロが大好きなオードリー

 

posted by at 02:12  | 塾長ブログ

英語と歴史を同時に学ぶ 「史実を世界に発信する会」の英訳教科書 19

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、穀雨(二十四節気の一つ)の「霜止出苗(しもやんでなえいずる)」の時期に因んだわけでは有りませんが、プランターの花々の植え替えをしました。早く来た塾生にも手伝って貰い、根切り虫を土壌の中から駆除。花の苗の成長を見守ります。

さて、英語と歴史を同時に学ぶ」シリーズです。第4章 近代の日本と世界(1) 幕末から明治時代 第1節 欧米諸国のアジア進出 の続きになります。http://www.sdh-fact.com/CL02_2/Chapter%204%20Section%201,%202.pdf

 Choshu and Satsuma Domains’ bid to expel the barbarians

In 1863 (Bunkyu 3), the shogunate succumbed to pressure from the Imperial Court and asked that all domains take measures to drive away foreigners. Choshu Domain eagerly embraced this call to arms, only to find itself confronted the very next year by a punitive expedition of American, British, French, and Dutch warships. Helpless in the face of the withering firepower of the combined fleet, Choshu was quickly defeated. This was called the Shimonoseki War.

The other powerful domain influenced by the sonno joi movement was Satsuma (modern-day Kagoshima Prefecture). Unlike Choshu, Satsuma Domain did support the shogunate’s policy of opening Japan, but Satsuma samurai murdered British citizen Charles Lennox Richardson in 1862, and British warships attacked Kagoshima Castle in Satsuma Domain in retaliation for the “Richardson Affair“. Though Kagoshima was burnt to the ground under the enemy bombardment, Satsuma did put up a tough fight and caused significant damage to the British fleet. This conflict was called the Anglo-Satsuma War.

The British left the fight greatly impressed by the bravery of Satsuma samurai, and henceforth attempted to deepen its ties with Satsuma Domain.

Having seen the military strength of the Western powers firsthand on the battlefield, the samurai of Satsuma and Choshu realized that simply “expelling the barbarians” would not save their country. Instead, they increasingly came to believe that Japan would have to embrace Western civilization in order to modernize its own military forces.

Topic 50 Recap Challenge! –

(1.) Write down two controversial provisions included within the US-Japan Treaty of Amity and Commerce.

(2.) Explain the differences in the policies of the shogunate and those of the samurai of the sonno joi movement.

長州藩の下関砲台を占拠した四ヶ国連合艦隊の兵士達  長州藩は馬関海峡(現関門海峡)を封鎖し、通行する外国船を攻撃したが、四ヶ国の連合艦隊17隻に砲撃されて敗北した(ベアト撮影 神奈川・横浜開港資料館像)

 攘夷を決行した長州藩と薩摩藩

朝廷の攘夷の要求に押された幕府は、1863(文久3)年、各藩に攘夷を行うよう命じた。これを受けて長州藩は攘夷を決行したが、翌年、報復にやってきた米・英・仏・蘭の軍艦の圧倒的な火力によって敗北を喫した(下関戦争)。

 長州藩と並ぶ有力な攘夷勢力は、薩摩藩(鹿児島県)だった。薩摩藩は、幕府の開国方針を支持していた。しかし、1862年に薩摩藩が起こしたイギリス人殺傷(生麦事件)に報復するために、鹿児島に来襲したイギリス艦隊と戦った。艦隊の砲撃により鹿児島城下は炎上した。しかし、薩摩藩は善戦して、艦隊にかなりの被害を与えた(薩英戦争、1863年)。

 以後、イギリスは薩摩藩士の気概に一目を置くようになり、薩摩藩に接近していった。

外国と戦争をした薩長両藩の攘夷派の武士達は、単純な攘夷論では国を救えない、我が国は西洋文明を積極的に取り入れ、軍事力の近代化を図らねばならないと考えるようになった。

 まとめにチャレンジ 

①米国と結んだ日米修好通商条約に含まれていた二つの問題点を書いてみよう。

②尊王攘夷派の武士達と幕府の方針の違いを説明してみよう。

The Tsushima Incident

The foreign threat to Japan came no less from the north. In February 1861 (Bunkyu 1), the Russian warship Posadnik suddenly appeared in Aso Bay, Tsushima Island. Three hundred and sixty Russian soldiers disembarked, occupied part of the island, and killed several local people. Russia was an imperial rival of Great Britain and hoped to turn Tsushima into a military outpost for its own incursions into the Pacific.

The shogunate convinced Great Britain to compel the Russians to leave, but the occupation of Japanese territory for half a year hammered home to the people of late-Edo Japan the necessity of a strong national defense.

 

対馬事件

 外国の脅威は北からもやってきた。1861(文久元)年2月、ロシアの軍艦ポサドニック号が、突然、対馬の浅茅(あそう)湾に来航した。360人のロシア兵が島の一部を占拠し、島民殺害事件まで起こした。ロシアの目的は、イギリスに対抗して対馬を太平洋進出の軍事基地にすることだった。

 幕府はイギリスの力を借りて退去させたが、半年に亘り日本の領土を占拠されたこの事件は、幕末の人々に国防の重要性を認識させた。

 

・・・現在も国防の最前線である対馬。

元寇襲来の文永の役(文永11(1274)年)では、宗資国は80余騎で応戦しながら対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍を射倒し、宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの、宗資国以下の対馬勢は総討ち死にした。その時の対馬の惨状を日蓮が以下のように伝えている。

去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし) — 『日蓮書状』

元軍は宗資国以下の対馬勢を破った後、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としています。

その約六〇〇年後の対馬事件は、ロシア軍艦ポサドニック号が文久元年(1861)二月に対馬尾崎浦に来航し、浅茅湾に居座り、九月まで対馬藩や幕府がその対応に苦慮したものである。対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。七月に、イギリスが幕府に英艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案。幕府は独力で排除できず、イギリスの干渉によってロシア艦隊が退去に至った。

いつの時代も、しっかりした軍事力を有していないと、他国の侵略に翻弄されてしまうという厳しい現実。それを歴史は証明しています。

posted by at 19:00  | 塾長ブログ

子供達に必須の「和食」

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、メルマガでよく購読しているブログ「国際派日本人講座」。日本人に勇気や自信を与えてくれるブログです。長文では有りますが、是非ご一読頂きたいので敢えて全文を掲載させて頂きます。

今回は筆者も講演を拝聴した女性についての記事のご紹介です。http://blog.jog-net.jp/201804/article_4.html

 

立ったまま講演する東城百合子女史(92歳)

国柄探訪:和食が救う高齢化社会 和食がもたらす、自然と調和した食べ方、生き方が、高齢化社会を救う。

 ■1.和食を堪能するフランス人

 先日、所用あってパリに数週間滞在したが、この地での日本食の人気は凄まじい。ある観光サイトで見ると、パリにある約1万5千軒のレストランのうち、「和食」のカテゴリーに入っているのが760軒ほど。パリのレストランの20軒に1軒は和食だと考えると、その人気ぶりが窺える。

 世界のどこでも日本食は大人気だが、パリでの特徴は、一定レベル以上の店では、中国人や韓国人のやっている「エセ日本食レストラン」などはなく、日本人のシェフたちが腕を振るって、本物の日本料理を出しているという点である。そしてどうもフランス人客には、その味が分かるようなのだ。

 ある店で、小さな高野豆腐が出てきて、これは西洋人には受けないだろうと思っていたら、一緒に食事をしていたフランス人が感に堪えないような表情をして、「うむ、これはおいしい」などと唸る。そんな玄人好みの日本料理を、周囲のフランス人客たちも味わっている。

 食文化は民族毎に違うと言われるが、フランス人が本物の日本料理を味わっている様子を見ると、本当においしい料理は、人種や民族の別なく、味覚の発達した人ならおいしいと感じるのではないか、と思うようになった。味覚の発達した民族と、未発達の民族がいるだけだ、と言ったら、ヘイト・スピーチだろうか。

 ちなみに、食べ物がまずいと「定評」のあるロンドンにも行ったが、二十年ぶりに再訪したという同行の日本人が、「料理が格段においしくなった」と驚いていた。昔はまずくてとても食べられなかったのが、今は普通にまずい程度でなんとか食べられる、というのである。イギリス人の味覚も発達中というところか。

■2.日本料理は「神事」

 拙著『世界が称賛する 日本人の知らない日本』[a]の「なぜ日本食は世界で人気があるのか」の章では、人気の秘密をこう解いた。

 まず日本では、料理とは、穀物、野菜、魚や肉など、「いのち」ある素材を人間がいただくという「神事」である。我々が食事の前に「いただきます」というのは、食材の「いのち」を「いただいて」、自分の「いのち」に同化する事を感謝しているのである。

「料理は神事」、そんな意識がどこかにあるからこそ、料理人たちは材料のいのちを最大限に引き出して、少しでもおいしいものを作りたいと、長年、さらには世代を重ねて、腕を磨く。そんな精進で積み重ねられてきた日本料理が、手っ取り早い金儲けとしてレストランをやるような連中に負けるわけがないのである。

「いただきます」という言葉には、日本人の生命観が籠もっている。自然食・自然療法の大家として、もう70年近くも活動を続けられている東城百合子(とうじょう・ゆりこ、92歳)さんの最新刊『健康になる食べ方 幸せになる生き方』[1]には、そのような日本人の伝統的な生命観が如実に表れていた。今回は、そのごく一部を紹介させていただこう。

■3.「生かしていただいている」

「自然食」というと、欧米から入ってきた、食品添加物の使われていないもの、というふうに捉えられがちだが、東城さんの言う「自然食」とは、もっと深い意味が込められている。

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 四季折々、大地からは穀物、野菜、果物を、海からはお魚、海藻を季節ごとに恵んでもらっています。太陽を照らし、雨を降らせ、大地を養う。だからご飯を捨てたらお天道さまに申し訳ないと、感情でなく愛情で子どもを叱れたのです。私たちは勝手に生きているのではありません。生かしていただいているのです。[1, p168]
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 自然は、植物や魚や動物など「いのち」に満ち満ちている。我々はその「いのち」をいただいて、「生かしていただいている」。これが日本人の「自然観」であり、それに根ざしているのが東城さんの「自然食」だろう。

 たとえば、ふきのとう。2月の寒さにひるむことなく、土の中から、ぽっこりと小さな芽を出す。

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 昔の人はこのふきのとうの底力を大切にしました。二月初旬の春一番早く出るこのふきのとうを、つぼみのうちにつみとって食べると、その年、一年は大病をしないといって大事に食べました。
ふきのとうは肝臓の薬ですがそれだけでなく、冬ごもりで体内に残った毒素をはき出し、太陽の少ない季節に足りなくなった栄養分を補ってくれるのです。寒い季節を強く生きるために細胞に活力をつけて、血液の循環も助けてくれて身体も温めてくれます。[1, p24]
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 この後には「寒い時には寒さに耐えられるようにこんなよいものを自然は与えてくれます」と続くが、これが「生かしていただいている」ということであろう。

■4.野草の無償の愛

 自然に「生かしていただいている」というのは、東城さんの実体験から来ている。東城さんは若かりし頃、栄養学の勉強中に肺結核で死にかけた。戦前の結核は、打つ手のない「死病」であって、「栄養をとれ、肉や卵を食べろ」というのが、唯一の療法だった。

 ところが、ある医者から「どっさり栄養をとるというのは、血液を酸性にして、結核菌が喜んで繁殖するだけだ。動物性の血をよごす食物はやめて、アルカリ性の玄米と、野菜と小魚、海藻少々それにごまが何よりの薬だ。それが生命力をつくる」と言われた。

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 私はハッとしてスグ実行しました。そして玄米と野菜(ことにたんぽぽ、よもぎなどの野草を多く食べた)と海藻、小魚のごく少々の食物で健康になり、さんざん化学療法をしてもどうにもならず、死にかけた私が、まるでウソみたいによくなったのです。その間一年半の月日を要しましたが……。[1, p16]
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 特に野草に関しては、次のように思い出す。

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 ふきのとう、よもぎ、なずな、のびる、おおばこ、はこべ、ゆきのした、すぎな等は、どれもこれも幼い日から、そして肺結核で苦しんだ時、病気で死にかけた艱難の時を支えてくれた素晴らしい野草たちです。
野草は何も言わず、あるがままに自然のお悟(さと)しのままに生え、「必要ならどうぞ」と無償の愛を私にくれました。私はこの野草のように生きたいと思います。[1, p155]
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 野草が自然の中で生かされ、無償の愛を提供しているように、人間も自然の中で生かされ、無償の愛を提供すべきなのだろう。

■5.「自分の体に聞いてください」

 春一番に芽を出すふきのとうが、冬の間に体内にたまった毒素を排出し、足りなくなった栄養分を補ってくれるのは、大自然の不思議としか言いようがないが、もう一つ不思議なのは、我々の先祖はどうして、こういう事が分かったのだろう、という疑問である。

 冬の間、食べ物が少なくなって、ようやく春一番に芽を出したふきのとうを見つけたら、食べてみようと思うのは、当然だろう。しかし、それが自分の身体にどのような影響を及ぼすか、我が先人たちは鋭敏な感覚で、体験的にそれを知ったに違いない。

 そうした体験が何世代も積み重ねられ、「冬ごもりで体内に残った毒素をはき出し、太陽の少ない季節に足りなくなった栄養分を補ってくれる」という知恵が生まれてきたのだろう。

 こうした自分の身体に関する鋭敏な感覚、観察眼を、現代の我々は忘れてしまっている。東城さんは「腹八分目に医者いらず」という古人の諺を説いているが、ある癌患者から「腹八分目ってどの辺でしょう」と聞かれた。医者から余命3カ月と診断された患者である。

「自分の体でしょう? 他人の体のことはわかりませんよ。自分の体に聞いてください」と、東城さんは答えた。その後、しばらくしたら、その患者は「がんは消えました。おかげさまです」と感謝したという。

 東城さんが発行している雑誌『あなたと健康』で、「げんのしょうこ、どくだみ、決明子(けつめいし)を煎(せん)じて飲んだら体調がよくなった」という記事を読み、それを鵜呑(うのみ)にして、濃く煎じて飲んだら胃が痛くなった、吐き気、食欲不振など体調不振が続いた、という人がいた。それに対して、東城さんはこう説く。

__________
 それぞれ体質は違うし、病気の状態もさまざまです。自分の体に合わせた飲み方をしなければなりません。・・・慌てずじっくり体と相談し、体と話し合って生きることを考えましょう。[1, p119]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■6.「今の日本人は、食を選ぶ力がなくなってしまった」

 現代の栄養学では、成人男性の必要な合計カロリー数は2,600kcalくらいとされている。しかし、成人男性と言っても体格はそれぞれ異なり、また20代の青年と80代の老年、オフィス・ワーカーと肉体労働者とでも違うだろう。さらに同じ人物でも元気で仕事に励んでいる時と、風邪気味で寝込んでいる時とでは、必要なカロリー数も異なるはずだ。

 体調だけではない。悩みがあったり、腹を立ててイライラしているときは、胃液も唾液も出ないので食欲を失う。そんな時に、無理に食べても栄養は吸収されない。「カロリー計算というのは、この個人差や心の姿を度外視してしまいます」と、東城さんは指摘する。

 現代の栄養学を否定しているのではない。この本のあちこちに栄養学の知識は生かされている。しかし、必要カロリーが個人差や心の姿を度外視しているように、まだまだ未熟な発展段階であって、そこを補うために、われわれは自分の身体と「話し合いながら」、生きていくことが必要なのである。

「今の日本人は、何が正しいのか、食を選ぶ力がなくなってしまったようです」と、東城さんは指摘する。ポテトチップばかり食べて太ったり、痩せようとバナナ・ダイエットに飛びついたり。自分の体の声を聞かない、という点で、この両者の姿勢は同じである。

__________
 よく噛んで食べると、分量はこれで大丈夫、と体が教えてくれます。自分の好みであれこれ食べていては、体は「これで充分」というサインを教えてくれません。カンが働かないし感覚も鈍くなります。
 努力、工夫、判断、決断、感性も、この食べ方、噛み方、手足を使って働く日々の生活の積み上げで育ちます。何もしないで頭で考えてばかりでは、この感性は育ちません。[1, p63]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■7.梅干しが伝える自然のエネルギー

「食を選ぶ力」を見失った現代の日本人から見れば、先人たちの知恵は深い。例えば梅干し。

__________
 梅干しには強力な殺菌力があり、昔から疫病の治療や熱や痛みに、内用・外用ともに使いました。夏におひつの中に一つだけ入れても、その日一日はご飯がいたみません。また食べれば酸味で耳下腺(じかせん)からパロチンというホルモンが分泌され、このことが老化予防となり、生活習慣病の予防、治療等に役立ちます。

 朝に熱い無農薬番茶に梅干し一個を入れて、種だけ残して飲むと、血行を盛んにし、老廃物を出し、造血を助け、疲労素を梅のクエン酸が中和してくれるので体調がととのい、さわやかになります。

 また難病とされる動脈硬化・脳溢血(のういっけつ)・神経痛・リウマチなどを予防・治療してくれます。[1, p106]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 本物の梅干しは「土用干し」で作られる。真夏の晴天に三日三晩干す。

__________
 真夏は、太陽エネルギーの最も強い時ですから、その力を梅がもらいます。そして夜干しすると夜露の中のオゾンを吸って、梅の中に新しい生命力が貯えられます。それが真っ赤な血にしてくれる力となり、目に見えない生理現象を回転させてくれる力ともなります。

 この土用干しは梅干しを強力にするのです。そして太陽に干し、長く保存しておくと、空気中のバクテリアが働いて酵素活動を助け、また強力な力を増し加えてくれます。[1, p109]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 太陽や夜霧という自然のエネルギーを得た梅干しが、人間の体という、もう一つの自然の中に入って、そのエネルギーを発揮するのである。

■8.自然と調和した生き方の威力

 平成28(2016)年の日本人の平均寿命は女性が87.14歳、男性が80.98歳で、男女とも香港に次いで世界2位であった。香港は人口700万余の一都市に過ぎないから、国レベルの比較では日本は実質、世界トップであると言える。

 ところが日常的・継続的な医療・介護に依存しないで自立した生活ができる「健康寿命」で見ると、日本女性は74.79歳と、12年以上もの差がある。つまり老後には平均12年以上も医療や介護に依存する生活が待っているのである。

 医学の発達により、ガンの克服は最終段階にあり、これに成功すると、平均寿命は100歳の時代を迎えるという。それはそれでめでたいことであるが、同時に健康寿命をいかに伸ばしていくか、が大きな問題である。

 そこでのお手本は、92歳になった今も原稿を書き、料理教室を開き、講演は立ったままで行うという東条さんの生き様だろう。それは我が先人たちの残した自然と調和した食べ方、生き方の威力を示している。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 東城百合子『健康になる食べ方 幸せになる生き方』★★★、扶桑社、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/459407863X/japanontheg01-22/

■伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』に寄せられたアマゾン・カスタマー・レビュー 計111件、5つ星のうち4.9

★★★★★ 日本らしさが日本人の誇り(「あんこーる」さん)

 本書を通じて、日本的なものの見方・考え方がどれほど世界を動かす力があるのかということを改めて知ることができます。これこそ、日本という国、日本人が積み重ねてきた歴史の深みなのでしょうか。あまりにも知らないことが多すぎて自分自身が恥ずかしくなるほどでしたが、読後は日本人としての誇りを持てる清々しい気持ちになりました。

★★★★★ 海外で働く一人として参考になります(「yLorence」さん)

 今、米国で働いているのですが、本著は大変参考になります。日本人としてどう生きていくか、様々な人種の人と付き合う中で日本人としてどうプレゼンスを示していくか大事なことを示唆してくれています。今後も誇りをもって社会に日本に貢献できればと改めて思わせてくれる一冊ではないでしょうか?

__________
伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30) 総合19位(H28/5/29)
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・・・如何でしょうか。

ブログの主催者の伊勢正臣氏は海外から本物の「日本人」に向け素晴らしい情報を発信しておられます。ご紹介されている東城百合子(とうじょう・ゆりこ、92歳)女史。筆者も数年前に講演会場で御姿を拝見しました。御高齢ですが、病を克服し「命」を頂いたことに感謝され、「食」=「命」という信念の基、全国でご講演されています。子供の命を守るお母さん達に、厳しくも愛情を込めた叱咤激励をされます。講演会場でも若いお母さんや女性に、健康を守る役目は「貴方に有ります!」と、檄を飛ばされます。学校の先生方にも、東城百合子女史の様な「氣合い」を発揮して頂けると、「先生」冥利につきると思うのですが・・・無論、その前提として、子供達のご両親が先生方を「応援」することが何より大事です。

 

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