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21世紀を生き抜くには

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、21世紀を生き抜く力の基本を、幼児教育から始まる基礎教育で身につけて欲しいと考えています。

日本を取り巻く安全保障環境の劇的な変化は無論、国内外の変動は、社会・経済面で大きな影響を私達に与えています。しかし、いつの時代も大きな変革の波は、環境の変化によって起きることを歴史は教えています。したがって、これからの時代の先行きが不透明であろうと、前向きに生きていけるように「生き抜く力」を義務教育の間に身に付けておかなくてはなりません。

「21世紀を生きる職業人を取り巻く状況」について、以下の答申が出されていますので、引用してご紹介します。

因みに、厚生労働省の2016(平成28)年簡易生命表によると、現在10歳の男の子の平均余命は71.23年、女の子は77.39歳だそうです。つまり、21世紀一杯をほぼ生き抜いていかなければならない世代ということです。子供達がこれからの激動する時代に柔軟に対応できるだけのものを身につけるには、まずは親御さんに以下の答申をご参照頂きたいものです。

中教審答申「個人の能力と可能性を開花させ、全員参加による課題解決社会を実現するための教育の多様化と質保証の在り方について」(2016年5月)

1 世界的な状況
○ 「知識基盤社会」の時代を迎えた21世紀の経済社会においては、グローバル化の進展と ともに、知識・技術は日進月歩の進化を遂げ、産業の高度化が進んでいる。イノベーションの 波も押し寄せる中、産業構造の転換のスピードはますます速くなり、各企業等は、より流動的 で先行き不透明な状況の中での競争に面している。
○ 新しい産業・職業が次々と生まれる一方、今ある職業の多くが、近い将来、新たな職業に 入れ替わっていくことも想定しなければならなくなっている*1。多くの仕事が機械やコンピュー タに置き換えられ、「人が担う仕事」の領域も変容していくと予測されており*2、人が担う業務 は、より人間的なコミュニケーションを伴う業務等へと移行する*3とともに、「経済のサービス化 ・ソフト化」がより一層進展していくことも予想される。

*1 ニューヨーク市立大学のキャシー・デビッドソン教授は、その著作(“Now You See It” (2011))の中で、「2011年に米国の小 たち学校に入学した子供 達 の65%は、大学卒業後、今は存在していない職業に就くだろう」との予測を採り上げている。

*2 オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授らは、その論文(“The Future of Employment”(2013))で、「米国にお ける仕事の約47%が、今後10年から20年程度で自動化される可能性が高い」と予測している。

*3 産業構造審議会新産業構造部会(平成28年1月15日)では、モノのインターネット(IoT)や人工知能(AI)、ロボット等の出現がもたらす第4次産業革命において増加していく「ミドルスキルの仕事(ボリュームゾーン)」の例として、①IoTを活用したビジネスの企画立案、②データ・サイエンティスト等のハイスキルの仕事のサポート業務、③個人のセンスやアイデアを活かしたマス カスタマイゼーション、④ヒューマン・インタラクションを挙げている。さらに、同部会による「新産業構造ビジョン中間整理」(平成 28年4月27日)では、第4次産業革命により増加する仕事として、ハイスキルの仕事のサポートとしてのミドルスキルの仕事、マ スカスタマイゼーションによるミドルスキルの仕事、安心感が購買の決め手となる商品・サービス等の営業・販売に係る仕事、人 が直接対応することが質・価値の向上につながる高付加価値なサービスに係る仕事等を示している。

2 我が国の状況

○ 我が国の産業・職業をめぐる現状に目を転じれば、世界に類を見ない速さで少子・高齢化 が進行しており、生産年齢人口は、今後減少していくことが確実となっている。とりわけ、地方 においては、若年世代の流出と東京圏への一極集中により、地域経済の縮小や深刻な人手 不足が、既に現実化している。

同時に、様々な産業は世界の市場と直接つながり、グローバル化への対応は、都市・地方 の別を問わず、多くの企業にとっての喫緊の課題となっている。

○ 企業等においては、経済状況等の変化を背景に、新卒一括採用・終身雇用に代表される 日本型の雇用慣行にも変容が生じており、企業内における教育訓練の機会も中長期的に減 少傾向にある。我が国の企業等は、従来、実践的な職業知識・技能の育成は主として企業 等の役割と考え、学校教育に対しては、大学等の入学段階における選抜機能を背景に、基 礎的な素質を持った学生等を送り出す役割により多くを期待し、大学等で何を学んだかは余 り重視しない傾向が強かったが、そうした考え方にも変化が現れてきていると言われる。同質 的と言われる日本の職場集団の有り様にも変化が進み、個々の企業等の中に集積された暗黙知を形式知化して継承することや、さらには、これらを理論化・体系化して、生産性の向上 へとつなげることの重要性が指摘されている。

○ 就業者の状況としては、企業の従業者数の約7割は中小企業従業者が占めており、また、産業別では、戦後一貫して、第3次産業就業者の割合が増え、現在は約7割に至っている。今後の人材需要増が見込まれるのは、専門的・技術的職業従事者、サービス職業従事者等であって、その他の職種は総じて減少が予想されており、一つの企業の中で職務内容を限定されずに働くメンバーシップ型の雇用から、職種の専門性に基づくジョブ型雇用(専門性を活かして企業横断的にキャリアアップを行うなどの働き方)へのシフトが進んでいくことも 予想される。 

  「ミドルスキル」「データ・サイエンティスト等のハイスキルの仕事のサポート業務」「マス カスタマイゼーション」「ヒューマン・インタラクション」など、やたらに英語のカタカナ語が記載されていて、私達からすると読むに耐えない文章が並んでいます。「グローバル化の進展」の為せる技なのかもしれません。しかし、文部科学省の中教審答申自体が、多くの日本人にとって平易に理解できない、というのは問題ではないのか、と言いたいのは私だけでしょうか。
 皮肉な見方をすると、文部科学省の中教審答申をまとめた人たちは、「21世紀一杯をほぼ生き抜いていかなければならない世代」ではない、ということですね。
posted by at 18:18  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 24 支倉常長

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室の塾生さんの中で、歴史好きの子供さんは夏休み最後の楽しみとして8月26日封切りの「関ヶ原」(司馬遼太郎原作)を鑑賞する予定です。本来、歴史には様々な人間模様が根底にありますから、時系列を追って歴史的事実を暗記するだけでは無味乾燥(面白みも風情もない)としたものになります。仮に、entertainment(エンターテイメント:娯楽)としての歴史ドラマや映画であっても、イメージを掴み歴史的興味を覚えることは大事なことです。

関ヶ原の戦いは、安土桃山時代、慶長五年九月十五日(西暦千六百年十月二十一日)のことですが、その十三年後の慶長十八年九月十五日(西暦千六百十三年十月二十八日)に月ノ浦(現・宮城県石巻市)を出帆し、遠路ローマに行った武士がいます。

下記の本は、その武士について書かれたもので、筆者が数年前に読み感動したものです。

支倉常長―武士、ローマを行進す (ミネルヴァ日本評伝選) 田中英道著

筆者が愛読しているブログ「国際派日本人養成講座」http://blog.jog-net.jp/201708/article_4.html からの引用です。少し長いですが、教科書などに書かれていない面白さがありますので、敢えて全文をご紹介します。

 

支倉常長 ~ 伊達政宗がスペイン国王とローマ教皇に送った使節
  常長は7年かけて地球を半周し、メキシコと欧州各地で熱狂的な歓迎を受けた。

■1.ローマでの日本武士たちの行進

 1615(元和元)年10月29日、日本では大坂夏の陣で大阪城が落城した年、ローマでは伊達政宗が送った使節・支倉常長(はせくら・つねなが)の一行の入市式が行われた。一行が仙台藩の月浦港を出てから、太平洋を横断してメキシコに着き、さらに大西洋を渡ってスペインからローマに辿り着くまでに、ちょうど2年と1日を要していた。

 地球のはるか裏側から来た使節団を一目見ようと、道筋にはあらゆる階層の群衆が集まり、建物の窓辺には着飾った貴婦人たちが並んで、それだけでも素晴らしい見世物になった。

 使節団の行進は、近衛騎兵隊50騎、ローマ・フランス・スペインの大使や貴族たち、騎士たちからなる豪勢な行列から始まった。続いて、日本の武士たちが大小の刀を差して歩いた。

 やがて使節の支倉常長が、ローマ教皇の甥と並んで、騎乗して現れた。両側は矛や槍をもった教皇のスイス人衛兵に守られていた。支倉は白地の和服に動物や鳥や草花の図柄が金銀の糸で刺しゅうされた豪華な衣装で人々の目を奪った。頭にはローマ風の帽子を被っていたが、群衆の歓呼に応えて、その帽子をとって楽し気に挨拶をした。

 一行がサンピエトロ大聖堂前の広場を堂々と進むと、教皇はヴァチカン宮殿の窓越しにこれを見て、何と素晴らしいものかと、繰り返し喜びの情を示し、天を仰いで、はるばる遠く異教徒の国から神のお導きでやって来たことを感謝した。

 実は、この4日前の夕刻、一行がローマに到着した際に、教皇の使者が待ち構えていて、常長はすぐに呼び出された。それほど、教皇は一行の到着を待ち焦がれていたのである。

歴史の面白さは、年代を遡り、地理的な広がりを想像しながら、歴史的事象を思い描くことができることです。

■2.メキシコとの交易

 常長一行を乗せた使節船が、仙台の東北東約70キロ、石巻湾に面する月浦港を出発したのは、ほぼ2年前のことだった。藩主・伊達政宗が徳川家康の後ろ盾を得て、自ら船を造り、大勢の商人や荷物を積み込ませて送り出したのだった。

 その主たる狙いはメキシコとの交易であった。家康は頻繁にフィリピン総督と書簡を交換しており、メキシコとの通商のために、スペインとの関係を保とうとしていた。キリスト教は徐々に禁じつつも、貿易は続けたいと考えていたのである。

 1588年にスペインの無敵艦隊が英国艦隊に破れ、1600年頃にオランダ北部7州がスペイン統治から実質的に独立すると、アジアの海においても英蘭がスペイン、ポルトガルの覇権に挑んでいた。家康は貿易の相手国として、従来からのスペイン、ポルトガルと、新興のイギリス、オランダと両天秤にかけていた。

 一方、スペイン、ポルトガルは同じ国王の下にあったが、両者間にも内部抗争があった。従来はポルトガル系のイエズス会が日本での独占的な布教を許されていた。キリスト教布教と植民地化を並行して進める一派で、わが国では西国大名に取り入って勢力を伸ばした。その脅威を感じた信長、秀吉、家康がキリシタン禁制を進めたのは、イエズス会の活動に対してだった。

 一方、スペイン系のフランシスコ会は、1600年にローマ教皇がイエズス会以外の宗派にも日本布教も容認する勅書を発してから、日本に進出を始めた。フランシスコ会はイエズス会よりははるかに大きく、また活動の軸を布教と貿易としていて、安全な存在だった。

 1603年に来日したフランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロは、4ヶ月で日本語を習得し、伊達政宗に近づき、遣欧使節の一人となった。

 この40年ほど前に、フィリピンとメキシコを結ぶ太平洋横断の航路が発見されていた。フィリピンから黒潮に乗って北上し、日本近海で東に吹く貿易風に乗り、一気に太平洋を横断して、カリフォルニア北部に着き、そこからカリフォルニア海流に乗ってアカプルコまで南下する。帰りはアカプルコからフィリピンまで直行する。

 スペイン船がこの航路を活用すれば、仙台藩はフィリピンとメキシコを結ぶ交易の中継点となり、今まで西国が独占していた南蛮貿易に進出できることとなる。フランシスコ会と結んでメキシコ貿易に加わることは、伊達政宗にとって魅力的な経済振興策であった。

■3.国内で作り上げた「黒船」

 驚くべき点は、伊達政宗がメキシコに向かう大船を国内で作り上げたということである。すでに国内の造船技術は高く、フィリピンやタイへ向かう朱印船では400人も乗れる船があった。その造船技術を使って、政宗はスペイン人の指導は受けつつも、自力で太平洋横断可能な大船を建造させたのである。

 政宗からは「黒船」、スペイン側からは「サン・ファン・バウティスタ」号と呼ばれたこの船は、二本の高いマストに横帆がはためく西洋風の船で、船体500トン、長さ35メートル、幅10.8メートルと、ヨーロッパの遠洋航海船と比べても立派なものであった。この船は二度も太平洋を往復し、最後はフィリピンでスペイン艦隊に売られたほどの頑丈な造りであった。

 メキシコまで使節を派遣するにしても、使節をスペインの船に同乗させて貰った方がはるかに容易なはずだが、わざわざ自国で造った船でメキシコまで赴く、という点に、対等の文明国としてスペインと交渉しようという政宗の自負が窺える。

日本の歴史をまるで貶めるかのような記述のある一部の教科書とは異なり、「国際派日本人養成講座」のブログでは、我々のご先祖様たちや先人たちの素晴らしさを紹介しています。

支倉常長行程(wikipediaより)

■4.「忍耐強そうな、気負ったところのない正直な日本の武士」

 ソテロとともに使節として選ばれた支倉常長は伊達政宗に重用されていた家臣で、戦国の争いの中では、敵方への密使を務め、相手方の武将の一人を味方につけて戦局を有利に導くなど、政治力、統率力に優れた武将であったようだ。

 教皇の要望で描かれた常長の肖像画がローマ郊外のボルゲーゼ宮に残っている。美術史の大家・田中英道氏はこう評している。

__________
 何と忍耐強そうな、しかし気負ったところのない、正直な日本人の武士が描かれていることであろう。恐れも蓋恥心もない、まさにありのままの日本人の表情といってよい。それに何と丹念に白い絹地と笹や鹿などの模様が描かれていることか。腰の刀の鍔(つば)にもまた、伊達家の九曜紋がきっちりと描かれている。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 その忍耐強い、気負ったところのない正直な日本の武士として、常長は7年に渡る地球を半周する主命の旅を完遂したのである。

■5.熱狂的な歓迎

 1613(慶長18)年10月28日に月浦を出た使節船は、ちょうど3ヶ月かけて太平洋を横断し、翌年1月28日にメキシコ・アカプルコ港に入った。メキシコではスペインの副王が、南北アメリカとフィリピンを統治していた。到着の様子をスペイン側の記録はこう記述している。

__________
 王家の紋章を付け、輝くばかりに壮麗な船が、ローマ教皇聖下とカトリックのスペイン国王陛下のもとへ向かう日本からの大使たちを乗せてアカプルコ港に姿を現した時、裁判官や港湾管理長官たちは、使節の肩書に敬意を表して、できるだけ手厚くもてなすことにした。

 船が近付いて和平のしるしにたくさんの号砲を鳴らすと、港でも号砲を盛んに鳴らし、大勢の火縄銃兵も同じことをし始めた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 「王家の紋章」とは使節船の船尾に飾られた伊達家の九曜紋だろう。こうした大歓迎が、これから一行の立ち寄る各都市で繰り返されるのだが、その陰には政宗や常長、ソテロの冷徹な計算があったと思われる。

 まず、スペインやポルトガル両国は、軍事的にも経済的にもイギリス、オランダに追い上げられていた。それはローマ教皇から見れば、カトリックがプロテスタントに負けつつあるという事だった。そんな時に、地球の裏側の、それも大船を自力で作れるほどの文明国が、通商と布教を求めて使節を送り込んできたのである。

 スペイン国王、ローマ教皇、そして貴族階級から一般市民までが熱狂的に常長一行を歓迎したのは当然だろう。冒頭に述べたローマでの歓迎ぶりはその現れであった。

 また、ソテロというフランシスコ会の宣教師をもう一人の使節とした事も優れた手であった。

 日本布教の独占を崩されたイエズス会は「使節は単なる一地方の領主からのものだ」とか、「布教を求めるのは見せかけで、貿易だけが真の狙いだ」などと、スペインやローマで盛んに陰口を叩いたが、対立するフランシスコ会は自派の宣教師ソテロが加わっていただけに、一行を熱心に保護、支援したのである。

■6.常長とソテロの交渉ぶり

 メキシコの副王に対して、常長とソテロは今回の使節派遣の目的を次のように説明した。

・メキシコ交易の実現は日本に折衝を強めるオランダ、イギリスの勢力拡大を阻止する効力がある。
・日本側が造船する場合は経費を負担するため、スペイン側の出費の軽減につながる。
・メキシコの産金が必要とする日本産水銀の安価で大量の輸入が可能になる。
・キリスト教禁圧が進行する現在の日本で、この交渉が実を結んだ場合には、フランシスコ会ばかりでない他宗派への厚遇と恩恵の供与が約束される。

 このように貿易面、布教面でのスペイン側のメリットをきわめて実利的、論理的に説いている。これはソテロのスペイン側の実情に関する知識を基に、常長の相手の心理を洞察する鋭さが現れた交渉ぶりだろう。

 その上で、両者がメキシコ副王に誓願しているのは、同地からさらにスペインへ向かう旅の庇護と支援であった。というのは、その地の滞在費と次の目的地までの旅費は、その都度、滞在地の支援に頼らざるを得ないからである。逆に言えば、一行は各地において「庇護と支援」を受けることに成功しつつ、メキシコからスペイン、ローマまで辿り着いたという事になる。

■7.「大使の物腰から自ずと発せられる精神の輝きと思慮深さ」

 常長は、訪れる各地の人々に強烈な印象を残した。その人品への賛美が、そこかしこで語られている。

 たとえば、スペイン国王から「大使はローマに赴くのか」と質問された時に、常長は「その旅に出るために陛下のお許しと命令を待つのみです」と答えた。こんな返事をされて、喜ばない人間はいない。国王は、既に命令は発した旨を返答し、常長は国王の手に感謝の口づけを捧げたのである。

 国王はさらにローマ教皇に書簡を送り、一行は確かな使節であり、自分が便宜を与えたこと、教皇が大いなる慈愛と寛容をもって使節を受け入れていただきたい旨を記していた。

 スペインで国王に次ぐ実力者のレルマ公は「大使の物腰から自ずと発せられる精神の輝きと思慮深さを、絶え間なく看取しており、近年世界最果ての地から使節が訪問するのは、スペイン国王の王冠にとって大きな僥倖である」と再三繰り返した。

 マドリッドを発って、バルセロナへの途上、サラゴサでは同地の副王の宮殿で豪華なもてなしを受けたが、その後の懇談が2時間も続いた。そこでは常長はすべての質問において的確な返答を行ったため、副王は彼の賢明さと優秀さに驚嘆したという。

 ローマで常長を描いた油絵が、「何と忍耐強そうな、しかし気負ったところのない、正直な日本人の武士」として描かれているのは、こうした常長の人格から受けた感銘を表しているのだろう。

元和元年九月十五九月十二日(西暦千六百十五年十一月三日)にはローマ教皇パウルス五世に謁見した際に、支倉常長が鼻をかんだ懐紙がバチカンの人類博物館に展示されていたことがあるそうです。当時、西洋では手鼻かハンカチを使って鼻をかみ、懐紙を用いて鼻をかむという習慣がなく、大変珍しがられた為とか。日本人の生活習慣の優美さがわかるエピソードですね。また、「白地の和服に動物や鳥や草花の図柄が金銀の糸で刺しゅうされた豪華な衣装」や腰の刀やその鍔(つば)などの工芸品の素晴らしさにも感嘆されています。

「支倉常長像」ローマで常長の世話役だったボルゲーゼ枢機卿の命で制作され、縦196.0cm、横146.0cmの巨大な画面に等身大で描かれている。(Wikipediaより)

■8.地球史的偉業

 類い希な戦略と人品、そして7年をかけて地球を半周する粘り強さで、常長は元和6(1620)年9月に仙台に帰還した。しかし、その使節としての直接的な成果はほとんどなかった。日本では徳川幕府がキリスト教禁制を強めつつある様子が伝えられ、スペイン国王も大手を振って日本との通商を許せる状況ではなくなっていた。

 同時に、スペイン・ポルトガルとイギリス・オランダを両天秤にかけていた家康が亡くなり、2代将軍秀忠は完全にイギリス・オランダ側についていた。スペイン・ポルトガルの経済も文化も衰退する中で、布教はせずに交易だけを求めるプロテスタント国があれば、日本としては十分であった。

 しかし、イギリスやオランダにも常長一行の情報は届いていた。一行がスペインに上陸した時点で、「大使は国王と教皇に2百万レアル以上に見積もられる豪華な贈り物を携えてきた」と驚く報告が、イギリスの国務大臣に寄せられている。

 さらに、常長らの行程を記録した書物が、その帰国前の1617年にドイツ語訳まで出版されている。日本からの使節到着は、当時のヨーロッパ全体を驚かせていたのである。

 自ら大船を造り、これほどの豪華な贈り物を携えた大使を送り込む日本の国力を、欧州諸国は畏怖の念をもって知ったであろう。オランダは日本との交易を長崎でのみ許されたが、そもそもオランダ船は各地で海賊行為を行い、フィリピンを武力で攻め立てたり、インドネシアで3百年も圧政を続けた事を見れば、オランダが平和的な国であるとは到底、言えない。

 そのオランダですら日本との交易で、大人しく長崎の出島に閉じこもって日本のルールに従っていたという事は、それだけ日本の国力に畏怖の念を持っていたからであろう。その畏怖の形成に、常長の渡欧が与(あずか)っていたことは想像に難くない。

 常長の渡欧は、大航海時代に世界を我が物顔で闊歩していた西洋諸国に対する非西洋諸国からの反抗の最初狼煙(のろし)であった。それは白人世界に対する本格的な反撃となった日露戦争と大東亜戦争の先駆けとも言える地球史的事件であったのである。

以上の日本人の武士の世界史的な偉業が教科書には掲載されていません。支倉常長が伊達政宗の命を受け出帆した簡単な紹介があるくらいです。

posted by at 23:05  | 塾長ブログ

アル幼児サントノ会話

長崎市五島町ニアル羅針塾 学習塾・幼児教室デハ、夏季講習モ終盤二差シ掛カッテキマシタ。先日、アル幼児サン(四歳児)ト一緒ニ修身ヲ音読シテオリマシタ。

二年生 一 カウカウ

 オフサ ハ チヒサイトキ カラ 子モリ ナド ニ ヤトハレテ、ウチ ノ クラシ ヲ タスケマシタ。マタ チチ ガ ザウリ ヤ ワラヂ ヲ ツクル ソバ デ ワラ ヲ ウツテ テツダイヒマシタ。ソノ ノチ ホウコウ ニ デマシタ ガ、ヒマ ガ アレバ、ユルシ ヲ ウケテ イヘ ニ タチヨリ、フタオヤ ヲ ナグサメマシタ。

現代ノ幼児サンカラスルト、挿絵ヲ見テモ、父親ガ草履ヤ草鞋ヲ作ル側デ、娘ノオフサガ藁ヲ打ツ様子ナド、状況ガワカリニクイ場面デス。シカシ、賢イ幼児サンデスカラ、一所懸命ニ考エテイル様子デス。

「カウカウ」トハ、「親孝行」ノコトデス。貴方ノオ父サンヤ、オ母サンニ喜コンデモラウコトデスヨ。例エバ、オ父サンガ御帰リニナッタ時、「オ仕事、オツカレサマデシタ」。オ母サンニ「イツモ僕ノオ世話ヲシテクレテ、アリガトウゴザイマス」ト、オ話シテミタラ良イデスヨ、ト伝エマシタ。

サテ、私ノ言葉ヲ復唱シテクレマシタガ、ソノ後、如何。

posted by at 23:29  | 塾長ブログ

夏休みと創作

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室の夏休みは、創意工夫のとき。

幼児さんの想像力を観るのは楽しい。さあ、何ができるかお楽しみ。

それぞれのstory(物語)が始まります。

posted by at 20:49  | 塾長ブログ

教科書に乗らない歴史上の事実 3 ナチスからユダヤ系市民を守った物語

長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室では、30度を超える猛暑の中懸命に学習に取り組んでいる塾生さん達がいます。毎日コツコツ努力する「努力の天才」を目指して日々取り組んでいます。

毎年八月になると原爆や終戦に関する報道がメディアで流されます。日本の終戦は昭和二十年八月十五日ですが、欧州戦線では同年(1945)五月八日にドイツが無条件降伏し、停戦に至りました。

戦後、日本の学校では我が国のみならず世界の近現代史を授業で教えることはありません。従って、現在の北朝鮮問題や中国共産党率いるChinaの国際秩序への挑戦などに対する危機意識が、我が国の国民の間で希薄になっています。

しかし、陸続きの国々が犇(ひし)めくヨーロッパでは、過去も現在も国を守る為に一丸となって取り組む其々の国や国民の姿勢があります。ふとしたことから、デンマークの第二次世界大戦中の有様を記した記事に出会いました。

「デンマーク人の勇気 ナチスからユダヤ系市民を守った物語」http://lgmi.jp/detail.php?id=2505

第二次世界大戦では、デンマークは1939年に不可侵条約を締結したばかりのナチス・ドイツに国土を占領されます。1940年4月9日に開始されたドイツの電撃的なデンマーク侵攻によって、デンマーク政府はほとんど戦闘を行うことなく、侵攻開始後わずか数時間で降伏します。

一見軟弱な姿勢のようですが、結果としては非常にClever(クレバー、利口な、賢い、ずる賢い)な選択であったということが、上記の記事からもわかります。長文ですが、是非ご一読をお勧めします。

デンマークは世界で2番目に古い君主国です。無論、世界で一番長く(二千六百年以上)続く君主国は日本です。其々の置かれた国土や国際環境で、いかに国土と国民を守るかは、その時々の為政者の智慧と決断にかかります。

 コペンハーゲンに騎乗で繰り出すクリスチャン10世(1940年)by Wikipedia

下記の地図は、現在のデンマーク国土です。

デンマーク(20世紀末 赤色)黄色はスウェーデン、灰色はドイツ

posted by at 15:08  | 塾長ブログ
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