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子供の創造力

早いもので明日は立夏(24節氣のの穀雨から数えて十五日目))。田植えや種蒔きの始まる頃です。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室は連休中の一日、学習の合間に工作をしました。
新暦の端午の節句に因んで、ダンボールで好きなものを作ろう、と始めました。

カッターナイフの使い方を教えると、それぞれ考えながらダンボールと格闘。
見様見真似で、日本刀と手裏剣を作成。

そして、お決まりのチャンバラ。
昔から、日本人の子供らしい遊びの定番です。

   ダンボール日本刀

身近なもので工作をして遊ぶことは、想像力や工夫する智慧が必要です。
何かを作るためには、観察眼と創造力を駆使しなければなりません。
「ものづくり」は、子どもの学びには不可欠です。

posted by at 20:58  | 塾長ブログ

天才の育て方「親の接し方こそが重要になる」 14歳プロ棋士・藤井四段 

世の中では、様々な教育論や子育て論が喧しく喧伝されています。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、参考にするか否かは是々非々です。

注目の十四歳の最年少プロ棋士・藤井四段。
早速、以下のような記事が配信されています。

産経新聞(2017.5.2)
14歳プロ棋士・藤井四段はこうして生まれた! 天才の育て方、専門家「親の接し方こそが重要になる」
http://www.sankei.com/life/news/170502/lif1705020010-n1.html

平成21年 小学1年当時、将棋大会に参加した藤井四段

 「自分としてはそんな特別なものはないというか…」

 藤井四段は、文芸春秋(3月号)のインタビューで「自分は天才だと思うか?」と問われ、戸惑い気味にそう答えた。

 この言葉通り、藤井四段にとって将棋は、能書きを無視して夢中になれるものであり、その進化を「強くなりたい」との思いが支えてきた。

 生来の負けず嫌いを伝えるエピソードは枚挙にいとまがない。同誌によれば、小学生の頃、谷川浩司九段から指導を受けた際は、負けが決定的となり「引き分けにしようか」と提案されると、盤を抱えるようにして泣き出したという。

 私生活では中高一貫校の名門、名古屋大教育学部附属中に通う優等生でもある。好きな科目は数学や歴史、地理。読書家でもあり、小5の時には司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読破。新聞は最初から最後まで目を通し、家族とさまざまなことを語り合うという。

結論としては、

「心の土台」「思考の土台」をどう作ってやるか。才能豊かな人間を生むには、親たちが、子供の心にどう寄り添っていくかが重要

・・・何時の時代も変わらないことは、

「心の土台」=しっかりとした倫理観を幼児期に植え付けること。

「思考の土台」=読み・書き・算盤の力をしっかりつけながら、良書を読み込む力をつけること。

に尽きるのではないでしょうか。

百田尚樹の「海賊と呼ばれた男』や司馬遼太郎の『竜馬がゆく』などの長編小説を、小学生の時に読破するなどといった力を身につけるだけの環境を、親御さんが作り上げていることも一つのヒントです。

posted by at 15:28  | 塾長ブログ

次期学習指導要領と、英語力のある人材を小学校教員として採用?

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、幼い時から家族のみならず、他者とも意思の疎通が出来るように訓練する必要があると考えます。
その為にも、基本の「礼」については、本ブログの「貝原益軒の説く「幼児教育」其の七」(以下、参照)で述べたように、幼い時よりしっかりと身につけさせる必要があります。
特に、挨拶は時間の観念をしっかり認識させる意味でも重要です。

 礼は天地のつねにして、人の則(のり)也。
則(すなわ)ち人の作法を言へり。
礼なければ、人間の作法にあらず。禽獣に同じ。
故に幼(いとけなき)より 、礼をつつしみて守るべし。
・・・礼(社会生活をする上で、円滑な人間関係や秩序を維持するために必要な倫理的規範)は、天地(天と地、世界)の常(世の中の理(ことわり)、ならわし)であり、人の則(のり=手本として従う規範、基準)である。
即ち(言い換えれば)、人の作法(礼にかなった立ち居振舞い。物事を行う方法)のことである。
礼がなければ、人間の作法ではない。禽獣(鳥や獣)と同じである。
故に、幼い時より、礼を慎んで(過ちの無いように行動を控えめにし)守るべきである。

さて、英語教育に関心をお持ちの方なら、日々様々な情報が流れてきているのでご存知かもしれませんが、小学校で平成32(2020)年度から全面実施の5、6年生の英語の教科化、及び3・4年生の外国語活動に関連しての記事が目につきました。

「小学校は英語力重視で教員を採用」 (産経新聞)

平成32(2020)年度から全面実施される小学校の次期学習指導要領では、高学年で英語が教科になる他、現在は高学年で実施されている「外国語活動」が3・4年生に前倒しされることになっています。ここで問題となるのが、小学校教員の英語力です。大学の小学校教員養成課程では英語を学ばないため、多くの小学校教員が英語の指導に自信がないというのが実情です。

詳細は記事をお読みいただきたいのですが(http://www.sankei.com/life/news/170428/lif1704280046-n1.html)、正直なところ、文科省の方針はチグハグ感は否めません。
つまり、十分に教員養成や試行を重ねてから実施するなら話はわかるのですが、現在の小学校の先生に負担を増やすだけのやり方では、教育現場が混乱します。
何より、小学校で早々と英語教育をする弊害のみが露呈するはずです。
つまり、ただでさえ落ちている「国語力」が更に落ちていくことです。
当然のことですが、それと連動して「算数」の力や、その他の教科の力も確実に落ちていくでしょう。

Active Learning(アクティブ・ラーニング)の導入といい、小学校英語の導入といい、かっての「ゆとり教育」の失敗と同様に、後世に禍根を残す愚策ではないかと考えます。

しかし、次期学習指導要領が実施される以上は、ご家庭でもその対策を立てていかないことには、気がつくと我が子だけが学力がつかず取り残されるということにもなりかねません。

但し、慌てることなく、お子さんにとって何を身につけるべきかを冷静に考えて対応すれば懸念することはありません。

posted by at 16:11  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 22 神武天皇

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、子供達に国語力をつけるためにも歴史の素養を身につける事と連動させていきたいと考えています。

先にご紹介していました「少年日本史」(平泉澄著)。
現在学校で用いられているどの歴史教科書よりも格調高く日本の國史を紐解かれています。
所謂、名調子です。
平泉澄先生のような方に講義をして戴くと、誰でも歴史に興味を持つのではないかと思います。

そこで、昭和四十五年に出版された「少年日本史」(平泉澄著)から「神武天皇」の項を引用してご紹介します。
(尚、長文ですが名調子を味わっていただきたく、そのまま引用いたします。)

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

 神武天皇

「日本」と云う國家を建設し、日本民族の中心となって、その團結を固め、其の理想をかかげ、其の方向を決定した英雄は、一體誰であったか、と云う問題になります。
それは神武天皇であります。

 神武天皇と云いますと、皆さんは、非常に縁遠いお方のように感じるかも知れません。
ところが事實は、全く反對なのです。
 皆さん、皆さんの姓名を考えてください。
姓と名とを分けて、姓だけを、苗字と云います。
皆さんの苗字は、何と云いますか。
山田ですか。木田ですか。小島ですか。
村上、夏目、手塚、飯沼、依田、多田、小國、山縣、清水、田尻、浅野、土岐、船木、石川、この中のどれかではありませんか。
佐竹、武田、小笠原、秋山、南部、里見、新田、大館、今川、畠山、細川、この中にありませんか。
是等は源氏ですよ。
しかも清和源氏と云って、清和天皇から出ているのです。
そしてその清和天皇は、神武天皇の御血統を受け継がれたお方であり、神武天皇を第一代として、第五十六代の天皇でおありになるのですから、上にあげた苗字の人々は、近くは清和天皇、遠くは神武天皇を御先祖としているのです。

「僕の家の苗字は、違うんだ」と云うのですか。それでは何といいますか。
村岡ですか。三浦ですか。畠山ですか。相馬、梶原、北條、名越、金澤、伊勢、杉原、和田、千葉、この中のどれかですか。
是等は桓武平氏と云って、元は桓武天皇から出ているのです。
そしてその桓武天皇は、神武天皇の直系、第五十代に當たられるのです。

 また是等とは別に、近藤とか、進藤とか、武藤とか、尾藤とか、呼ばれる家があります。
佐藤や、加藤、後藤、齋藤になると、一層多いでしょう。
それらの家は、林や、冨樫、武田、河合、稲津、結城、松田、佐野、波多野などと同じく、先祖をさかのぼる時は、左大臣藤原魚名から出ています。
魚名は今より千二百年ばかり前の人ですが、魚名の祖父は不比等、不比等の父は大織冠藤原鎌足、その鎌足が天智天皇の重臣であった事は云うまでもなく、
もっとさかのぼれば、太古から皇室の重臣あって、神武天皇にお仕えした天種子命(あまのたねこのみこと)から出ているのです。
して見れば、齋藤も後藤も、その外、上にあげた家々は、神武天皇の重臣として、建國の大業をお助けした英傑の子孫である事、明らかでしょう。

 今から百七、八十年前の事ですが、寛政四年に、柴野栗山と云う學者が、神武天皇の御陵(天皇の御墓を御陵と云います)へお参りして、その痛ましい荒れ果てようを見て悲しみ、泣きながら詩を作りました。

 遺陵、わづかに路人に問いて求む、
 半死の古松、半畝(はんぼ)の丘、
 聖神ありて帝統を開きたまはずんば、
 誰か品庶をして夷流を脱せしめん、
中頃を少し省きますが、最後には、
 百代の本枝、かず億ならず、
 誰か能く此の處に一たび頭をめぐらす、

 と結んであります。

 意味は、「神武天皇の御陵は、今は立派でも無く、有名でも無いので、何處にあるのか、探しあてるのが容易で無く、路行く人に尋ね尋ねして、ようやくの事でお参り出来たが、来てみると、小さな丘の上に、枯れかかった松が一本立っているだけである。神武天皇が日本民族を統一し指導して、そして『日本』という國家を建設して下さらなかったならば、日本民族はいつまでもバラバラと分散して、低級な生活から脱出することが出来なかったであろうから、神武天皇は我々の大恩人としなければならぬ、そればかりでは無い、我々は神武天皇の子孫では無いか、神武天皇より今に至るまで、凡そ百代、二千数百年の間に、その直系(本)と分家(枝)と段々増加して、子孫の数は、幾億人と云う多数にのぼっている、卽ち、神武天皇は我々の大恩人であると同時に御先祖であるのに、誰も御陵をかえりみる人が無いと云うのは何と悲しいことでは無いか」と云うのです。

 この栗山と云う學者は、讃岐(香川縣)から出て幕府に用いられ、學問教育の方針を立て直した、優れた人物ですが、神武天皇に対しましての感激も流石に見事であります。

「百代の本枝、かず億ならず」と詠まれたのを、逆に説明して見ると、皆さんには、父と母と、親が二人あリましょう、その父にも親が二人、母にも親が二人ありますから、あなたの祖父、祖母は四人でしょう、その一代前になれば八人でしょう、そのまた一代前に溯れば十六人でしょう、も一つ前は三十二人、その前六十四人、一代平均三十年として、あなたから二百年ばかり前には、あなたの先祖は六十四人ばかりになるでしょう、二百年でそれですから、二千年さかのぼる時は、大變な数に上る事が分かりましょう。
 しかもそれはあなた一人でなく、お友達の誰も彼も皆同様なのです。

 して見れば日本民族、この島國に居住して幾千年、いつの間にか皆親類になり、親戚になっていて、いわゆる血が續いている間柄だと分かりましょう。
そして其の大きな血族團體の中心、いわば本家が皇室であり、その皇室の御先祖として、國家建設の大業をなしとげられたのが第一代神武天皇でおいでになるのです。
その神武天皇のご恩を忘れ、御陵をかえりみる者も無いのを嘆いたのですから、栗山は正しい知識と、素直なる感情を持っていたと云わなければなりません。

 それでは神武天皇は何處においでになり、何をなさったのかと云いますと、初めは日向(宮崎縣)においでになりましたが、日本國中、いくつにも分かれて相争っているのを御覧になり、之を統一して立派な國家としなければならぬと御決心になり、兵をひきいて船出し給い、宇佐(大分縣)、岡田の宮(福岡縣)、タケリの宮(又はエの宮、廣島縣)、高島の宮(岡山縣)等を經て浪速(大阪府)へ入り、河内から生駒山を越えて大和(奈良縣)へ入ろうとされた時に、頑強な敵の抵抗にあって、天皇の御兄(おんあに)五瀬命(いつせのみこと)は重傷を負われました。

 そこで天皇は、「我は日の神の子孫でありながら、日に向かって戦ったから、天罰を蒙ったに違ない、神をうやまい、日の神の御光を背に負うて戦うならば、必ず敵を亡ぼす事が出来るであろう。」とお考えになり、方向をかえて大阪湾を南へ下り、紀伊(和歌山縣)へお入りになった。重症の五瀬命は、ここでおかくれになったので、竈山に葬られた。天皇は進んで熊野へお入りになったが、山険しくて行くべき道なく、困り切って居られたところ、夢のお告げがあって、天照大神より八咫烏(やたがらす)を案内者としてつかわされた。後の大伴氏の先祖である日臣命(ひのおみのみこと)が兵をひきいて八咫烏のあとについて進み、宇陀(奈良縣)へ入った。天皇宇陀の高倉山のいただきにお登りになって、四方の状況を御覧になると、あちらにも、こちらにも、八十梟師(やそたける)が居って、天皇に抵抗している。國見岳の上にも居れば、磯城(しき)にも居る。葛城には赤銅(あかがねの)八十梟師がいる。
「八十」と云うのは、「数多くの」の意味、「梟師」は「勇敢なる人」の事ですから、何處(どこ)にも彼處(かしこ)にも、勇敢な人が澤山居って、それが皆互いに争って居り、そして今、天皇に抵抗したのでしょう。

 天皇は次第に之を平定して進まれ、最後に長髄彦(ながすねひこ)と對戦せられましたところ、頑強なる抵抗を打ち破る事ができず、官軍は苦戦に陥りました。その時、一天俄にかきくもり、氷雨が降ってきた中に、金色(こがねいろ)の不思議な鵄(とび)が飛んで来て、天皇の御手に持って居られた弓の弭(ゆはず;弓の先端)にとまりました。その鵄の光、電光の如くに強く輝いたので、賊兵は目がくらんで戦う事が出来なくなった。
長髄彦の所には、もとは天皇と同族である饒速日命(にぎはやひのみこと)が来て居られましたが、長髄彦の頑迷であって、どうしても教化に應じないのを見て、之を殺して帰順せられました。是が後世の物部氏の先祖で、子孫は長く武を以って國の守護(まもり)を擔當(たんとう)したのです。

 やがて方々の八十梟師、皆平定したので、天皇は橿原宮(かしわらのみや)に於いて御卽位式をあげられました。
古くは其の御徳を讃えて、「畝傍(うねび)の橿原に、底磐根(そこついはね)に宮柱(みやはしら)太しき立て、高天原に千木高(ちぎたか)知りて、はつくに知らす天皇(すめらみこと)」と申し上げましたが、御名は神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)、後に神武天皇と申し上げる事になったのです。

 話は簡単に、いわば一瀉千里(いっしゃせんり)で進みましたが、是は大變な大事業であって、容易な苦難では無かったに相違ありません。
日本書紀によれば、日向を御出發になってより、大和の平定まで、六年かかったとあり、古事記では、途中の御滞在御準備だけで、十五年、従って全體では、十七、八年かかった事になります。

 國家建設という事は、このように重大な、そして苦難の多い大業です。
近い例を、アメリカ合衆國にとれば、その獨立宣言は、西暦一七七六年でしたが、その後ワシントン(Washington)は随分の苦戦に陥り、それを踏越え踏越えて、遂に獨立の承認をかち得たのが、一七八三年、この間八年かかっています。

 また支那大陸に建設せられた國家、昔から數多くある中で、最も強力であって、且つ永續したものは、漢ですが、その初代の皇帝は、名を劉邦(りゅうほう)といいました。
その劉邦が兵をあげてから秦を亡ぼすまでに足掛け四年かかり、秦が亡びても項羽(こうう)という競争者が出て来たので、その項羽との戦いに足掛け五年かかり、前と合わせて八年の間、非常な苦労をして、ついに皇帝のくらいに着き、漢という國家をつくりあげたのでした。
殊(こと)に項羽という人は「力、山を抜き、氣、世を蓋(おほ)ふ」と、自分でも自任していたほどの英雄でしたから、此の人との戦いは、容易なことでは無かったに違いありません。

 今、神武天皇が、到る處に割據している八十梟師を、或いは討ち滅ぼし、或いは心服させて、日本民族統一の大業を成しとげられた事は、その大理想に向って一途に進み、いかなる苦難にも決して二の足を踏まれなかった英邁豪壮の御精神による事として、後世之に感激して、御諡(おんおくりな)を神武天皇と申し上げる事になったのです。
 

日本の歴史が世界に類のない連綿とした国体を保ち得たのは、世界史的に見ると奇跡ともいえるものです。
将来を担う子供達に、日本の素晴らしい歴史をしっかりと学んで欲しいと考えます。

posted by at 16:07  | 塾長ブログ

教科書に載らない歴史上の人物 20 神武天皇

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、子供達に国語力をつけるためにも歴史の素養を身につける事と連動させていきたいと考えています。

先にご紹介していました「少年日本史」(平泉澄著)。
現在学校で用いられているどの歴史教科書よりも格調高く日本の國史を紐解かれています。
所謂、名調子です。
平泉澄先生のような方に講義をして戴くと、誰でも歴史に興味を持つのではないかと思います。

そこで、昭和四十五年に出版された「少年日本史」(平泉澄著)から「神武天皇」の項を引用してご紹介します。
(尚、長文ですが名調子を味わっていただきたく、そのまま引用いたします。)

八咫烏に導かれる神武天皇(安達吟光画)

 

 神武天皇

「日本」と云う國家を建設し、日本民族の中心となって、その團結を固め、其の理想をかかげ、其の方向を決定した英雄は、一體誰であったか、と云う問題になります。
それは神武天皇であります。

 神武天皇と云いますと、皆さんは、非常に縁遠いお方のように感じるかも知れません。
ところが事實は、全く反對なのです。
 皆さん、皆さんの姓名を考えてください。
姓と名とを分けて、姓だけを、苗字と云います。
皆さんの苗字は、何と云いますか。
山田ですか。木田ですか。小島ですか。
村上、夏目、手塚、飯沼、依田、多田、小國、山縣、清水、田尻、浅野、土岐、船木、石川、この中のどれかではありませんか。
佐竹、武田、小笠原、秋山、南部、里見、新田、大館、今川、畠山、細川、この中にありませんか。
是等は源氏ですよ。
しかも清和源氏と云って、清和天皇から出ているのです。
そしてその清和天皇は、神武天皇の御血統を受け継がれたお方であり、神武天皇を第一代として、第五十六代の天皇でおありになるのですから、上にあげた苗字の人々は、近くは清和天皇、遠くは神武天皇を御先祖としているのです。

「僕の家の苗字は、違うんだ」と云うのですか。それでは何といいますか。
村岡ですか。三浦ですか。畠山ですか。相馬、梶原、北條、名越、金澤、伊勢、杉原、和田、千葉、この中のどれかですか。
是等は桓武平氏と云って、元は桓武天皇から出ているのです。
そしてその桓武天皇は、神武天皇の直系、第五十代に當たられるのです。

 また是等とは別に、近藤とか、進藤とか、武藤とか、尾藤とか、呼ばれる家があります。
佐藤や、加藤、後藤、齋藤になると、一層多いでしょう。
それらの家は、林や、冨樫、武田、河合、稲津、結城、松田、佐野、波多野などと同じく、先祖をさかのぼる時は、左大臣藤原魚名から出ています。
魚名は今より千二百年ばかり前の人ですが、魚名の祖父は不比等、不比等の父は大織冠藤原鎌足、その鎌足が天智天皇の重臣であった事は云うまでもなく、
もっとさかのぼれば、太古から皇室の重臣あって、神武天皇にお仕えした天種子命(あまのたねこのみこと)から出ているのです。
して見れば、齋藤も後藤も、その外、上にあげた家々は、神武天皇の重臣として、建國の大業をお助けした英傑の子孫である事、明らかでしょう。

 今から百七、八十年前の事ですが、寛政四年に、柴野栗山と云う學者が、神武天皇の御陵(天皇の御墓を御陵と云います)へお参りして、その痛ましい荒れ果てようを見て悲しみ、泣きながら詩を作りました。

 遺陵、わづかに路人に問いて求む、
 半死の古松、半畝(はんぼ)の丘、
 聖神ありて帝統を開きたまはずんば、
 誰か品庶をして夷流を脱せしめん、
中頃を少し省きますが、最後には、
 百代の本枝、かず億ならず、
 誰か能く此の處に一たび頭をめぐらす、

 と結んであります。

 意味は、「神武天皇の御陵は、今は立派でも無く、有名でも無いので、何處にあるのか、探しあてるのが容易で無く、路行く人に尋ね尋ねして、ようやくの事でお参り出来たが、来てみると、小さな丘の上に、枯れかかった松が一本立っているだけである。神武天皇が日本民族を統一し指導して、そして『日本』という國家を建設して下さらなかったならば、日本民族はいつまでもバラバラと分散して、低級な生活から脱出することが出来なかったであろうから、神武天皇は我々の大恩人としなければならぬ、そればかりでは無い、我々は神武天皇の子孫では無いか、神武天皇より今に至るまで、凡そ百代、二千数百年の間に、その直系(本)と分家(枝)と段々増加して、子孫の数は、幾億人と云う多数にのぼっている、卽ち、神武天皇は我々の大恩人であると同時に御先祖であるのに、誰も御陵をかえりみる人が無いと云うのは何と悲しいことでは無いか」と云うのです。

 この栗山と云う學者は、讃岐(香川縣)から出て幕府に用いられ、學問教育の方針を立て直した、優れた人物ですが、神武天皇に対しましての感激も流石に見事であります。

「百代の本枝、かず億ならず」と詠まれたのを、逆に説明して見ると、皆さんには、父と母と、親が二人あリましょう、その父にも親が二人、母にも親が二人ありますから、あなたの祖父、祖母は四人でしょう、その一代前になれば八人でしょう、そのまた一代前に溯れば十六人でしょう、も一つ前は三十二人、その前六十四人、一代平均三十年として、あなたから二百年ばかり前には、あなたの先祖は六十四人ばかりになるでしょう、二百年でそれですから、二千年さかのぼる時は、大變な数に上る事が分かりましょう。
 しかもそれはあなた一人でなく、お友達の誰も彼も皆同様なのです。

 して見れば日本民族、この島國に居住して幾千年、いつの間にか皆親類になり、親戚になっていて、いわゆる血が續いている間柄だと分かりましょう。
そして其の大きな血族團體の中心、いわば本家が皇室であり、その皇室の御先祖として、國家建設の大業をなしとげられたのが第一代神武天皇でおいでになるのです。
その神武天皇のご恩を忘れ、御陵をかえりみる者も無いのを嘆いたのですから、栗山は正しい知識と、素直なる感情を持っていたと云わなければなりません。

 それでは神武天皇は何處においでになり、何をなさったのかと云いますと、初めは日向(宮崎縣)においでになりましたが、日本國中、いくつにも分かれて相争っているのを御覧になり、之を統一して立派な國家としなければならぬと御決心になり、兵をひきいて船出し給い、宇佐(大分縣)、岡田の宮(福岡縣)、タケリの宮(又はエの宮、廣島縣)、高島の宮(岡山縣)等を經て浪速(大阪府)へ入り、河内から生駒山を越えて大和(奈良縣)へ入ろうとされた時に、頑強な敵の抵抗にあって、天皇の御兄(おんあに)五瀬命(いつせのみこと)は重傷を負われました。

 そこで天皇は、「我は日の神の子孫でありながら、日に向かって戦ったから、天罰を蒙ったに違ない、神をうやまい、日の神の御光を背に負うて戦うならば、必ず敵を亡ぼす事が出来るであろう。」とお考えになり、方向をかえて大阪湾を南へ下り、紀伊(和歌山縣)へお入りになった。重症の五瀬命は、ここでおかくれになったので、竈山に葬られた。天皇は進んで熊野へお入りになったが、山険しくて行くべき道なく、困り切って居られたところ、夢のお告げがあって、天照大神より八咫烏(やたがらす)を案内者としてつかわされた。後の大伴氏の先祖である日臣命(ひのおみのみこと)が兵をひきいて八咫烏のあとについて進み、宇陀(奈良縣)へ入った。天皇宇陀の高倉山のいただきにお登りになって、四方の状況を御覧になると、あちらにも、こちらにも、八十梟師(やそたける)が居って、天皇に抵抗している。國見岳の上にも居れば、磯城(しき)にも居る。葛城には赤銅(あかがねの)八十梟師がいる。
「八十」と云うのは、「数多くの」の意味、「梟師」は「勇敢なる人」の事ですから、何處(どこ)にも彼處(かしこ)にも、勇敢な人が澤山居って、それが皆互いに争って居り、そして今、天皇に抵抗したのでしょう。

 天皇は次第に之を平定して進まれ、最後に長髄彦(ながすねひこ)と對戦せられましたところ、頑強なる抵抗を打ち破る事ができず、官軍は苦戦に陥りました。その時、一天俄にかきくもり、氷雨が降ってきた中に、金色(こがねいろ)の不思議な鵄(とび)が飛んで来て、天皇の御手に持って居られた弓の弭(ゆはず;弓の先端)にとまりました。その鵄の光、電光の如くに強く輝いたので、賊兵は目がくらんで戦う事が出来なくなった。
長髄彦の所には、もとは天皇と同族である饒速日命(にぎはやひのみこと)が来て居られましたが、長髄彦の頑迷であって、どうしても教化に應じないのを見て、之を殺して帰順せられました。是が後世の物部氏の先祖で、子孫は長く武を以って國の守護(まもり)を擔當(たんとう)したのです。

 やがて方々の八十梟師、皆平定したので、天皇は橿原宮(かしわらのみや)に於いて御卽位式をあげられました。
古くは其の御徳を讃えて、「畝傍(うねび)の橿原に、底磐根(そこついはね)に宮柱(みやはしら)太しき立て、高天原に千木高(ちぎたか)知りて、はつくに知らす天皇(すめらみこと)」と申し上げましたが、御名は神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)、後に神武天皇と申し上げる事になったのです。

 話は簡単に、いわば一瀉千里(いっしゃせんり)で進みましたが、是は大變な大事業であって、容易な苦難では無かったに相違ありません。
日本書紀によれば、日向を御出發になってより、大和の平定まで、六年かかったとあり、古事記では、途中の御滞在御準備だけで、十五年、従って全體では、十七、八年かかった事になります。

 國家建設という事は、このように重大な、そして苦難の多い大業です。
近い例を、アメリカ合衆國にとれば、その獨立宣言は、西暦一七七六年でしたが、その後ワシントン(Washington)は随分の苦戦に陥り、それを踏越え踏越えて、遂に獨立の承認をかち得たのが、一七八三年、この間八年かかっています。

 また支那大陸に建設せられた國家、昔から數多くある中で、最も強力であって、且つ永續したものは、漢ですが、その初代の皇帝は、名を劉邦(りゅうほう)といいました。
その劉邦が兵をあげてから秦を亡ぼすまでに足掛け四年かかり、秦が亡びても項羽(こうう)という競争者が出て来たので、その項羽との戦いに足掛け五年かかり、前と合わせて八年の間、非常な苦労をして、ついに皇帝のくらいに着き、漢という國家をつくりあげたのでした。
殊(こと)に項羽という人は「力、山を抜き、氣、世を蓋(おほ)ふ」と、自分でも自任していたほどの英雄でしたから、此の人との戦いは、容易なことでは無かったに違いありません。

 今、神武天皇が、到る處に割據している八十梟師を、或いは討ち滅ぼし、或いは心服させて、日本民族統一の大業を成しとげられた事は、その大理想に向って一途に進み、いかなる苦難にも決して二の足を踏まれなかった英邁豪壮の御精神による事として、後世之に感激して、御諡(おんおくりな)を神武天皇と申し上げる事になったのです。

日本の歴史が世界に類のない連綿とした国体を保ち得たのは、世界史的に見ると奇跡ともいえるものです。
将来を担う子供達に、日本の素晴らしい歴史をしっかりと学んで欲しいと考えます。

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