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貝原益軒の説く「幼児教育」其の六

岩波文庫版の「和俗童子訓」に、
「父たり傅育者*たるものの注意」という注釈のついた項目があります。
*傅育(人に仕えて守り、世話をすること)

両親や子育てに関わる人は、子供が幼い時に、言行(言葉と行い)に対してあまり厳しいことを言うのは良くないのではないか、という漠然とした思いがありますが、貝原益軒先生はその誤りについて厳として指摘されます。
また、平安時代には既に語り継がれ記されてきた『実語教』なども、時機を逃さず教え諭すことの重要性を記しています。

天文十八年(1549)に日本にキリスト教を伝えたザビエルやそれに続く宣教師達も、当時の日本人の老若男女を問わない識字率の高さや倫理観の高さに驚嘆した記録が残されています。
余談ですが、キリスト教を布教する際に、日本人が様々に宣教師に質問するので閉口し、他の国と違ってキリスト教を布教することは簡単にはいかない、ということも記録されているほどです。
つまり、当時の日本の一般庶民が、
「キリストの教えを信じれば私たちは救われるとしても、既に亡くなった先祖はその教えを受けることができないので救われないことになるが、如何」
と問い、ザビエル達宣教師が答えに窮したとの逸話が残されています。

さて、
貝原益軒先生の「和俗童子訓」。
江戸時代の子を持つ親に向けて分かり易く説いています。

貝原益軒 和俗童子訓 巻第一 総論上

<読み下し文>

 小児の時より、年(とし)長ずるにいたるまで、父となり、かしづきとなる者、子のすきこのむ事ごとに心をつけて、選びて、このみにまかすべからず。
このむ所に打ちまかせて、よしあしをゑらばざれば、多くは悪しきすぢに入(いり)て、後(のち)はくせとなる。
一たび悪しき方にうつりては、とりかへして、善き方に移らず、いまし(禁)めてもあらたまらず、一生の間、やみがたし。
故にいまだそまざる内に、早くいましむべし。
ゆだんして、其子のこのむ所にまかすべからず。
ことに高家(こうけ)の子は、物ごとゆたかに、自由なるゆへに、このむかたに心早くうつりやすくして、おぼれやすし。
はやくいまし(戒)めざれば、後に染(そ)み入(いり)ては、いさ(諫)めがたく、立ちかへりがたし。
又、あしからざる事も、すぐれてふかくこのむ事は、必(ず)害となる。
故に子をそだつるには、ゆだんして其このみにまかすべからず。
早くいましむべし。
おろそかにすべからず。
予(あらかじめ)するを先(せん)とするは此(この)故なり。

<現代語訳>

・・・小児の時より年長にいたるまで、父やその子に仕えて守り世話をする人は、子供の心が惹きつけられ好むことがある度にその心を慮って、子供の選り好みに任せてはならない。
好むところに完全にまかせて、善悪を分別しなければ、そのほとんどは悪い方面に入って、その後はくせ(正しくない、真っ当ではないこと)となる。
一度悪い方向へ移ってしまうと、取り替えをして善い方向へは移らず、禁じても改まらず、一生の間止めることは困難である。
故に(こういうわけで)、未だ染まってしまわない内に、早く戒める(誤りのないように、前もって注意する)べきである。
油断(気を緩め、注意を怠ること)して、その子供の好むところに委ね(一切を任せること)てはいけない。
とくに高家(由緒正しい家、名門)の子供は、物資(生活の支えとなる衣料や食料など)等も豊かであり、自由に用いることができるために、自分の好みで心変わりや心移り(好みが他に変わること)しやすく、溺れ(あることに夢中になって心を奪われること)やすい。
早く戒めず、悪いことが染み付いてしまった後になっては、諌め(禁止、制止すること)ようとしても困難になり、元に立ち戻ることができなくなる。
また、必ずしも悪いことではないことも、とりわけて深く好むことは、必ず有害になる。
故に、子育てをする際には、油断(気を緩め注意を怠ること)してその子供の好みに任せてはいけない。
早く戒めなければならない。
おろそかに(等閑(なおざり)、いい加減な様)してはならない。
予め(将来の事態に先立って、ある物事を行う様)すべきことを先になすのはこの理由からである。

**********************
子供さんは勿論、人を叱ることは大変に難しいことです。
しかし、その子の為に、その人の為にと信ずるならば、敢えて言うべき時があります。

 子供さんにとって唯一無二の親だからこそ、厳しく愛情を持って叱るべきです。
「叱る」と「怒る」は、全く違う言葉ですが、混同して用いられている言葉です。
「叱る」は、目下の者の言動に対し、欠点や誤りを強く咎めて戒めること。同じ過失を起こさないように、過失を戒めること、です。
「怒る」は、「起こる」(ある感情や欲望が心の中に生ずる)と同源で、感情が高まるの意味から腹を立てること、です。

親御さん方は、その違いを認識して、叱るべき時にはしっかり子供さんを叱ってあげてください。

posted by at 14:55  | 塾長ブログ

次期指導要領と大学入試

次期指導要領が改訂されることから、大学入試にどのような影響が表れるか、
が近い将来受験しようとするご家庭には大きな関心事です。
長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、幼児教育の大切さと合わせて、早い時期から将来の展望をしておく必要をお話しします。

さて、
産経新聞(2017.3.1)からの引用です。
http://www.sankei.com/life/news/170301/lif1703010053-n1.html

 平成32(2020)年度から小学校で、
同33(2021)年度から中学校で
全面実施となる次期学習指導要領が3月に告示されます。

高校(平成34<2022>年度入学生から全面実施)は1年遅れで告示される見通しですが、改訂の理念は同じです。
しかも高大接続改革との両輪で、「明治以来の大改革」(2014<平成26>年11月当時の下村博文・文部科学相)と言われるように、大学入試改革とも無縁ではないことに、注意しておく必要があるでしょう。

 「高大接続改革」であることに注意

 高大接続改革をめぐっては、ちょうど小学校で指導要領が全面実施される2020(平成32)年度に、現行の大学入試センター試験に替えて「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」を創設し、同年度の高校3年生(現在の中学2年生)から受験する方針が決まっており、新年度初頭に公表される予定の実施方針を、関係者は固唾をのんで待っています。

 改訂の具体的な内容を提言した中央教育審議会の答申(昨年12月)でも、「高大接続」の1節を設けています。
そこでは、現在進められている高大接続改革について「大学入学者選抜の在り方のみが議論されているわけではなく、高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の在り方を一体的に改革していこうとするものであることに留意が必要である」とクギを刺しています。

 高大接続改革は、高校と大学を、学校教育法で定められた「学力の3要素」でつなぎ、(1)知識・技能(2)思考力・判断力・表現力(3)主体性・多様性・協働性……を一体的に育て、社会に有意な人材を送り出すことを目指しています。学力評価テストが(1)だけでなく(2)を測定することを追求していること、各大学の個別入試では(3)も評価すべく多様な資料や選抜方法を求めているのも、そのためです。

 問われる勉強への姿勢

 先の中教審答申でも、次期指導要領に基づく高校教育は、
生徒一人ひとりに「資質・能力」の三つの柱([1]知識・技能[2]思考力・判断力・表現力等[3]学びに向かう力・人間性等)を育むことや、
アクティブ・ラーニング(主体的・対話的で深い学び、AL)の視点で生徒の学びの質を高めることを目指しており、大学入学者選抜でも、そうした高校での学びを価値付け、大学教育で、その成果を更に伸ばしていくものとして機能すべきことを強調しています。

 日本では大学入試というものが、若者にとって「通過儀礼」として一大イベントのようになっています。
もちろん、一定時期の集中的な勉強が、子どもの成長と学力の伸長に大きな効果を及ぼすことは言うまでもありません。
しかし、入試が終わったとたんに、すっかり忘れてしまうような勉強では、何にもなりません。
 知識を丸覚えするのではなく、クラスの中や校内外でのALを通じて、自分の頭でしっかり考え、他の課題にも自在に活用できるような知識として定着させる必要があります。
それが大学進学後のAL(大学教育界では「能動的学修」と訳す)を通じて、社会で活躍できる「汎用的能力」を育成することにつながります。

それこそが、高校教育、大学教育、大学入学者選抜を一体的に改革する、高大接続改革の眼目です。

そう考えると、高大接続改革は、2020(平成32)年度以降になってから対応すればよいという話ではありません。これから受験勉強をしようという生徒一人ひとりに問われていることでもあるのです。

「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について」(答申)
には、中央教育審議会が「はじめに」という導入部で以下のように述べています。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/__icsFiles/afieldfile/2017/01/10/1380902_0.pdf

『我が国の近代学校制度は、明治期に公布された学制に始まり、およそ70年を経て、昭和22年には現代学校制度の根幹を定める学校教育法が制定された。
今また、それから更 に70年が経とうとしている。
この140年間、平成18年の教育基本法の改正により明 確になった教育の目的や目標を踏まえ、我が国の教育は大きな成果を上げ、蓄積を積み上 げてきた。
この節目の時期に、これまでの蓄積を踏まえ評価しつつ、新しい時代にふさわ しい学校教育の在り方を求めていく必要がある。
本答申は、2030年の社会と、そして更にその先の豊かな未来において、一人一人の 子供たちが、自分の価値を認識するとともに、相手の価値を尊重し、多様な人々と協働し ながら様々な社会的変化を乗り越え、よりよい人生とよりよい社会を築いていくために、 教育課程を通じて初等中等教育が果たすべき役割を示すことを意図している。
グローバル化は我々の社会に多様性をもたらし、また、急速な情報化や技術革新は人間 生活を質的にも変化させつつある。
こうした社会的変化の影響が、身近な生活も含め社会 のあらゆる領域に及んでいる中で、子供たちの成長を支える教育の在り方も、新たな事態 に直面していることは明らかである。』

 

・・・西郷南洲翁遺訓集に西郷隆盛先生の言葉が残されています。

「政(まつりごと)の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り。」

(政治の根本は、国民の教育を高め充実し、国の自衛のために軍備を整理強化し、食料の自給率、安定の為農業を奨励するという三つである。)

まさに、時代を超えた至言(物事の本質を適切に言い表した言葉)であります。

 

posted by at 19:36  | 塾長ブログ

貝原益軒の説く「幼児教育」其の五

幼児教育についての貝原益軒先生の言、時代を超えた普遍的名言です。
「和俗童子訓」は、
巻の一 総論上、
巻の二 総論下、
巻の三 随年教法 読書法
巻の四 手習法
巻の五 教女子法
と、詳細にわたり縷縷述べられています。

長崎市五島町の羅針塾 学習教室・幼児教室では、子供達の将来に資する幼児教育の古典である「和俗童子訓」も活用していきたいと考えています。

さて、
貝原益軒先生の「和俗童子訓」。
江戸時代の子を持つ親に向けて分かり易く説いています。

貝原益軒 和俗童子訓 巻第一 総論上

<読み下し文>

 凡そ小児の教えは、早くすべし。
しかるに、凡俗の知なき人は、小児を早く教ゆれば、気くじけて悪しく、只、其心にまかせてをくべし、後に知恵出でくれば、ひとりよくなるといふ。
是必ず、おろかなる人のいふ事なり。
此(この)言(ことば)大(だい)なる妨げたり。
古人(いにしえびと)は、小児の初めてよく食し、ものいふ時より、早く教ゆ。
おそく教ゆれば、悪しき事を久しく見聞きて、先入の言(ことば)心の内に早く主(あるじ)となりては、後に善き事を教ゆれども、移らず。
故に、早く教ゆれば人やすし。
常に善き事を見せしめ、聞かしめて、善事に染み習はしむべし。
をのづから善にすすみやすし。
悪しき事も、すこしなる時、早く戒むれば去(さり)やすし。
悪長じては、去がたし。

<現代語訳>

・・・一般に、小児教育は、早くするべきである。
然るに(そうであるのに)、凡俗(世間並み)の知なき人(ものの道理を知り正しい判断を下すことができない人)は、小児に早くから教育をすると、やる気を削ぎ良くないので、ただその子の心の赴く(おもむく)にまかせ、成長して知恵がついてくれば、自然に良くなってくる、と言う。
これは愚かなる人(考えの足りない人)が必ず言うことである。
この様な言葉(や考え方)は大きな妨げ(障害)である。
古人(昔の世の人)は、小児が初めてよく食べる様になり、言葉を話す時から、早く教育を施す。
教育を遅く始めれば、悪いこと(良くないこと)を長い間見たり聞いたりして、前もって心の中に入った言葉が心の中の中心を占めることになり、後に善い事を教えようとしても、心の中に移す(染み込ませる)ことができない。
故に、早くから教育すれば容易く(たやすく:わけなく)教えることができる。
普段から常に、善い事を見せたり、聞かせたりして、善事(善いこと)を染み込ませるように習わせるべきである。
そうすると、自然に善(善いことや道理にかなったこと)へ向かう様になる。
悪いことも、少しである時は、早く戒める(同じ過失を繰り返さない様に叱る)と除く(取り去る)ことができる。
悪いことが増大すると、除く(取り去る)ことが難しくなる。

<読み下し文>

 古語(こご)に、「両葉去らざれば、将に斧柯(ふか)を用んとす」といへるがごとし。
婦人及無学の俗人は、小児を愛する道を知らず、姑息のみにして、ただうまき物を多く食わせ、よき衣を暖かにきせ、ほしゐままに育つるをのみ、其子を愛するとおもへり。
是人の子をそこなふわざなる事をしらず。
今の世にも、其(その)父、礼をこのみて、其子の幼き時より、しつけを教え、和礼を習わする人の子は、必ず其子の作法よく、立ち居ふるまひ、人のまじはり、ふつづかならず、老(おい)にいたるまで、威儀よし。
是(これ)其(その)父、早く教えしちからなり。
善を早く教え行はしむるも、其しるし又かくの如くなるべし。

<現代語訳>

・・・古語(古人の言った言葉)に、
「両葉(双葉、二葉)のときに切り取っておかないと、大木になってからでは斧を用いなければならなくなる(*)」というようなものである。
(*悪事や災いは小さなうちに取り除いておかないと、あとで面倒なことになるということの例え。両葉は芽が出たばかりの双葉。斧柯は斧の柄、また斧のこと。)
婦人及び無学(学問・知識のないこと)の俗人(世間一般の人)は、小児を愛する道をしらないで、姑息(根本的に解決するのではなく、一時の間に合わせにすること)のみで、ただ単に美味いものをたくさん食べさせ、よい着物を暖くなる様に沢山着せ、ほしいまま(やりたい侭に振る舞うこと)に育てるだけで、その子を愛していると思っている。
このようなことが人の子をそこなう(悪い状態にする、害する)わざ(行為、行い、振る舞い)であることを知らない。
今の世の中でも、その子の父が、礼(社会生活をする上で、円滑な人間関係や秩序を維持するために必要な倫理的規範)をこのんで(自分から進んで行い)、その子の幼時の頃より、躾(しつけ:子供に礼儀作法を教え身につけさせること)を教え、和礼(日本の倫理規範、礼儀作法)を習わせられた人の子は、必ずその子の作法は良く、立ち居振る舞い、人との交際などに、不束(ふつつか:教養がない様。嗜(たしな)みがない様)ではなく、老年に至るまで、威儀(挙措動作が礼式にかなっていること)が良いのである。
これは、その父が早くから教育を施した力である。
善を早く教え行わしめることは、その験(しるし:ある行為を積み重ねたことによる効果)はまたこのように如実である。

**********************

豊臣秀吉が立ち寄り先での茶を給仕する挙措動作や心遣いを高く評価し石田三成を見出した故事は、礼(社会生活をする上で、円滑な人間関係や秩序を維持するために必要な倫理的規範)を重んじて幼い時から教育したことの表れです。
日本人の教育の基本中の基本が示されています。
単なる知識教育だけでは役に立たない証左ではないでしょうか。

posted by at 13:03  | 塾長ブログ

貝原益軒の説く「幼児教育」

長崎市五島町の羅針塾 学習教室・幼児教室では、「就学前の学び」の大事さを常々指摘しています。

第11回親子セミナー、「親子で学ぶ偉人伝」では、貝原益軒の三百年前の教育書である「和俗童子訓」を採り上げました。

日本の子供達の読解力低下が指摘されて久しいのですが、経済協力開発機構(OECD)が昨年12月に公表した国際学力調査の結果では、15歳の読解力が4位から8位に順位を下げたとか。
マス・メディアが喧伝しますが、このような調査結果や他国との比較に一喜一憂することなく、教育に携わる大人達が目の前の子供さんと向き合うことが大事です。

「和俗童子訓」のみならず、日本の先人達は幼児教育がいかに大事かを縷々述べています。

   和俗童子訓(中公文庫)

貝原益軒 和俗童子訓 巻第一 総論上 から、幼児教育の要諦を若干紐解いてみます。

凡そ人は、善き事も悪しき事も、いざ知らざる幼(いとけ)なき時より、習い馴れぬれば、まづ入りし事、内に主として、既に其の性となりては、後に又、善き事、悪しき事を見聞きしても、移り難ければ、幼なき時より、早く善き人に近づけ、善き道を、教ゆべき事にこそあれ。

・・・一般に、善い事も悪い事も、分別のつかない幼い時に習い馴れてしまえば、身についてしまい定着すると、後になって善い事や悪い事を見聞しても、修正する事が難しくなる。幼い時よりいち早く善い人に接し、善の道を教える事が肝要である。

 人となる者は、必ず聖人の道を、学ばずんばあるべからず。
其の教えは、予(あらかじめ)するを先とす。
予(あらかじめ)すとは、かねてよりといふ意(ところ)。
小児(しょうに)の、いまだ悪に移らざる先に、かねて、早く教ゆるを云う。
早く教えずして、悪しき事に染み習いて後は、教えても、善に移らず。
戒めても、悪をやめがたし。
古人(いにしえびと)は、小児の、初めてよく食し、よくものをいう時より早く教えしと也。

・・・人となる者は、必ず聖人の道を学ばなければならない。
其の教えは、物事の始まる前に、前もってしておかなければならない。
予めすとは、以前からという意味合いである。
小児(幼児)の、まだ悪いことが身につくよりも前の小さな時から教えることである。
早く教えないで、悪いことが身についてしまった後には、たとえ教え導いても善きことは身につかない。
戒めても(叱り、注意をしても)、悪いことを止めることは難しい。
古人(昔の優れた人)は、小児(幼児)が普通の食べ物を食べ始め、しっかり言葉を話せる頃には、教え始めるべきであると云う。

 凡(およそ)小児の悪しくなりぬるは、父母、乳母(めのと)、かしずきなるる人の、教えの道知らずして、其の悪しき事をゆるし、從ひほめて、その子の本性(ほんせい)をそこなふゆえなり。

・・・一般に、小児(幼児)が悪くなるのは、両親や乳母、その他の使用人が教えの道(人としての倫理)を知らずに、悪い事を許したり、何でも褒めたりすることで、無邪気な子供の本質を損なってしまうからである。

  凡(およそ)小児を育つるに、初生(しょしょう)より愛を過すべからず。
愛すぐれば、かへりて、児(こ)をそこなふ。
衣服をあつくし、乳食にあかしむれば、必ず病多し。
衣をうすくし、食を少なくすれば、病すくなし。
富貴の家の子は、病多くして身よはく、貧賤の家の子は、病すくなくして身つよきを以って、其の故を知るべし。
小児の初生には、父母のふるき衣を改めぬひて、きせしむべし。
きぬの新しくして温なるは、熱を生じて病となる。
古語に、「凡そ小児を安からしむるには、三分の飢(うえ)と寒(かん)とを帯ぶべし」といへり。

・・・一般に、小児(幼児)を育てるには、赤ん坊の頃より過保護にしてはいけない。
過保護にして育てれば、かえって子供を損なってしまうことになる。
衣服を厚着にし、乳児食ばかりを食べさせると、必ず病気がちになる。
衣服を薄着にし、少食にすると病にかかることは少ない。
金持ちの家の子は、病気がちで身体虚弱であり、貧乏な家の子は、病気もせず身体強健であることから、其の理由を知るべきである。
小児(幼児)の赤ん坊の頃は、父母の着古した衣を縫い改めて着せることである。
衣服が新品で温かいものは、暑すぎて却って病気になる。
古い言い伝えには、「一般に子供を健全に育てるには、十のうち三分の飢え(腹七分目)と寒さ(薄着で少し寒いくらい)の状態を維持するべきである」という。

古来「煖(暖)衣飽食」は、暖かい衣服に困ることなく、飽きるくらいの量の食料があるという意味から、贅沢な生活のたとえです。幼児から其のような生活に慣れ親しむと、環境や状況が変わると対応できなくなります。
寒暑や飢餓状態に耐えることは、厳しい学問の道や仕事の厳しさにも耐え抜く力をつけることに繋がります。

心の持ち方も、幼児からしっかりと人倫の道(人として歩むべき道、人のあり方)を教え込むことの大事さを貝原益軒は説きます。

posted by at 15:25  | 塾長ブログ

国立大学で広がる<文理融合学部>

長崎市五島町の羅針塾 学習教室・幼児教室では、昨年九州大学の春日キャンパスのオープン・スクールに塾生と親御さんで参加をしました。幼児さんも様々な施設や催しに興味を示し、楽しいひと時でした。
その九州大学が平成30(2018)年度から「共創学部」を新設するというニュースが、注目を集めています。
国立大学で広がる<文理融合学部> 産経新聞(2017.1.27 )http://www.sankei.com/life/news/170127/lif1701270039-n1.html
(引用)

 人文社会系と理工系の学問を融合した教育がポイントとなっていますが、「文理融合」は九州大学だけではありません。
2017(平成29)年4月から新潟大学は「創生学部」をスタートさせるなど、他の国立大学でも、文理融合は、国立大学改革のキーワードの一つとなりそうです。

 2017年度から相次いで創設

 九州大学の計画では、共創学部(入学定員105人)は、従来の手法では解決が困難な問題に対して、文化や宗教などの多様性を理解しながら、分野横断的な発想をもって解決手段を見つけることのできる人材を育成するため、既存の学問分野を横断した「文系マインド・理系マインドや多様な方法論」を身に付けることを狙いとしています。
文理融合を正面から打ち出した学部といえるでしょう。

 新潟大学では、「課題発見・課題解決能力」の育成を目指して、人文社会系と理工系の他学部が提供する22科目を選択して学ぶことができる、文理融合の教育を柱に掲げています。
 同様に2017(平成29)年度新設の学部を見ると、横浜国立大学の「都市科学部」、滋賀大学の「データサイエンス学部」、島根大学の「人間科学部」なども、社会科学系の分野に自然科学系の学問を取り入れたり、あるいは理工系分野に社会科学系の学問を取り入れたりするなどで、文理融合を図っています。
 この他、2016(平成28)年度からスタートした宮崎大学の「地域資源創成学部」でも、地域のリーダー育成のカリキュラムの中に「生物学」「食品学」「作物栽培学」などの科目を取り入れています。

九州大学のホーム・ページを見ると、http://www.kyushu-u.ac.jp/ja/faculty/undergraduate/kyosogakubu

「九州大学は平成30年4月に、12番目の学部として国際社会で活躍するグローバル人材を育成する学生定員105名の共創学部を設置する予定です。

昭和42年6月の歯学部設置以来、約50年ぶりに新たな学部を設置し、複雑・多様化するグローバル社会において、多様な人々との協働から異なる観点や学問的な知見の融合を図り、共に構想し、連携して新たな物事を創造する「共創」により新たなイノベーションの創出を担う人材の育成に取り組みます。」
・・・と、あります。
かなり、気合の入った宣言です。

更に、「構想概要」として

「急速な社会変化から生じた複雑・多様化した課題・問題を抱えるグローバル社会においては、単なる知識の蓄積や技術の改良だけでは課題・問題を解決することが困難であり、課題や問題の背後にある社会的背景(言語、文化、宗教、価値観、経済力など)の多様性も理解したうえで、自らの問題意識に基づき、地球規模の課題を分野横断的な発想をもって解決手段を見つけることができる人材を育成することが必要であると考えます。」

また、「コンセプト」は、

「社会的課題の設定から課題解決策を考え【構想】、課題解決に向け他者と取り組み【協働】、構想から協働までの一連の【経験】を通じて、【共創】を目指す。」

と、なっています。

     科目イメージ

 

      科目イメージ

 

時代の大きな変化に対応出来る人材を育てる為には、大学が先ず改革していかなければならない。
その為、
国立大学の文理融合の教育を積極的に進めていくということです。

その理由は、
社会のグローバル化やICT(情報通信技術)の急速な進歩により、従来の学問分野で区切られた教育だけでは、これからの社会をリードしていく人材を育てられなくなっていると考えられるからです。

すでに世界的な囲碁棋士を負かすAI(人口知能)は驚異的な進歩をし続けていますし、Big Data(ビッグ・データ)の活用は当たり前の時代です。

これから大学を目指す受験生は「文理融合」は新たな進路選択の一つとなります。

posted by at 11:28  | 塾長ブログ
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