長崎市五島町にある羅針塾 学習塾・幼児教室 https://rashinjyuku.com/wp では、塾生が日本人らしい日本人に成長していくことを楽しみにしています。その為には、日本の歴史や伝統をしっかり学ぶことが必要です。
さて、縁あって以下の本を読んでいますと、なるほど!と思わせる記述を目にしました。それを引用します。
黄文雄の「歴史とは何か」(自由社)<日・中・台・韓>の歴史の差異を巨視的にとらえる
七、意味を読み取るために比較を必要とする理由
(中略)p.37~
日本の歴史教育の欠陥について、まとめて述べておこう。私のような台湾の出身者が、外から見ると、日本の学校で教える歴史教育の欠陥がよく見える。
現在使っている中学校学習指導要領によれば、中学校の日本史の歴史教育の目標は「我が国の歴史の大きな流れを世界の歴史を背景に、各時代の特色を踏まえて理解させ、それを通して我が国の伝統と文化の特色を広い視野に立って考えさせるとともに、我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を育てる」となっている。自国の歴史教育の目標として極めて適切に規定している。
しかし実際の学習活動の中には、日本の伝統と特色は何なのかを、考えさせるためのあるべき活動がない。それにどのようにして自国の歴史に対して愛情を深めるのか、そのための活動を促す規定がない。学習指導要領全体では、子供の表現力を身につけさせるとか、アクティブ・ラーニング(自主的にして能動的な学習)を強調しながら、歴史教育のこの目標に従って実際に取り組むための活動への促しがない。その結果、歴史上の知識のようなものは身についているが、比較がないのでその特色がつかめず、その結果、実際は自国の真の姿を知るという歴史教育の目的を十分に果たしていないことになる。
海外の子女が他国の子供達とそれぞれお国自慢をしている時、日本の子供だけが何も言えない状況になっているとよく聞くが、歴史教育の失敗の結果である。日本の子供は天皇がどのような役割を果たしているのかについても、一言も話せないのだ。
八、歴史認識から影響を受ける人間の歴史的行動
歴史認識は人々のアイデンティティー(主体性)形成に関わり、人々の歴史的行動に重大な影響を与える。そしてそのことが、その国の歴史の特色を形成する要素となる。このことを理解するために、中国と日本の歴史を比較した具体的な例を一つ示そう。
中世の初め、関白藤原忠通(ただみち)の子で慈円(じえん)という僧侶が、一二二〇年に「愚管抄(ぐかんしょう)」という日本で初めての政治評論書を著した。
慈円は中国の歴史に鑑(かんが)みて、全ての王朝には寿命があり、天皇の率いる朝廷も滅びる可能性があると述べた。しかし日本の朝廷は滅びなかった。
慈円が「愚管抄」を書くきっかけとなったのは、保元、平治の乱である。このうち保元の乱は、五歳で皇位に就いた第七十五代、崇德(すとく)天皇が、二十三歳で無理やり三歳の近衛(このえ)天皇に譲位させられ、この近衛天皇が十七際で亡くなったとき、自分が皇位に復帰するか、子の重仁(しげひと)親王が即位するかを期待していたが、期待は実らず、同母弟の後白河天皇が即位した。不満の昂じた崇徳上皇が通常日本では考えられないことであるが、兵を使ってクーデターを起こした。そしてあえなく失敗して讃岐(さぬき)に流されたのである。この政変の中で平氏と源氏の争いが起こり、源氏による鎌倉幕府が一一九二年開かれる。
そんな時代の流れのなかで、慈円は世の中には「道理」というものがあり、日本の大和朝廷に始まる朝廷も寿命があり、滅びる可能性があると言ったのである。ところが同じころ、承久三年(一二二一年)の承久(じょうきゅう)の乱でどんなことが起こったか。
承久の乱というのは、鎌倉幕府の北条義時(よしとき)が横暴であるとして、後鳥羽(ごとば)上皇が、鎌倉幕府打倒のために兵を挙げたのがきっかけである。上皇の兵を迎えた鎌倉幕府は敗けるどころか勝利した。しかし鎌倉幕府側は朝廷を滅ぼさず、幕府は仲恭(ちゅうきょう)天皇を廃し新しい天皇を立て、そして三人の上皇を遠方の辺鄙(へんぴ)の地に流した。
天皇より征夷大将軍の位を得て天皇の下にある者が、日本の最高の権威である天皇の、さらにその上にある上皇を遠方の地に流したのであるから、それだけでも大変なことで、まさに朝廷は滅亡の危機にあったと言える。しかし時の執権北条義時は朝廷から政治を預かる幕府の、その執権としての立場をわきまえ、朝廷そのものを倒そうとはしなかった、また、たとえ義時が仮に滅ぼそうと思ったとしても、そのために行動を起こせば、どれほどの騒乱が起こるか。朝廷を守ろうとする兵が続々と出てくるであろう。中国や朝鮮のような易姓革命のような動きは日本のどこからも起こらなかった。
この時の両軍の戦い方に日本らしさが十分に出ている。
鎌倉幕府の執権の北条義時は、朝廷からの兵を迎え撃つ兵の総大将としてその子泰時(やすとき)を任じたが、出兵に当たって、義時は泰時からの問いに答えて、もし朝廷の軍が、天皇の御旗を立てて上皇自らが兵を指揮して攻めてきた場合は、兜を脱ぎ捨てて弓の弦を切り、ひとえに畏まって、身は上皇にゆだねよ、もしそうではなく兵だけ押し寄せてきたならば、命を捨てて千人が一人になるまで戦え、と答えた。
日本の歴史を回顧して、そこから出てくる歴史認識から、この歴史的瞬間に、鎌倉幕府の武士は、中国や朝鮮の武将と違って心の底に朝廷を尊ぶ思いを秘めており、このように行動したのである。それが日本の伝統となり、さらに後世の者の行動に影響を与えるのである。
文化風土が長くつづくと、歴史と伝統ができあがり、その結果伝統を変えていくのはとても難しいものになる。
易姓革命の国、中国でも違った意味で伝統は強かった。政治改革を、中国では「変法」と呼ぶ。秦の始皇帝が中国を統一して以来、「変法」は一つも成功したことがない。有名な宋の王安石(おうあんせき)の変法も、清の戊戌(ぼじゅつ)維新も最後は失敗してしまった。
中華帝国が辛亥革命となって終焉(しゅうえん)を迎えても、中華民国は国民国家造りをめざして、逆に史上空前の内戦国家となってしまい、国共内戦後に成立した中華人民共和国も、約二十年後、文化大革命の「十年の動乱」に陥った。
20世紀に入って中国は帝国から民国、そして人民共和国と、国体も政体も二転三転し、手を変え、品を変えても、うまくいかなかった。
天子としての皇帝がいなくなると、中国人は心の中にある神を失ってしまうから、不安になる。だから初代大総統の袁世凱(えんせいがい)が一時的に帝政を復活したり、清朝最後の皇帝の宣統帝が満州国で復辟(ふくへき 退位した君主が再び位に就くこと)することが出てくる。それは中国に限らない。フランス大革命後にも「アンシャンレジーム」(王政復古)の嵐が吹きまくった。習近平が毛沢東主義への復活を目指しているのも、皇帝がいなくなると、中国が不安定になるのではないかという万民の声に応える必要があるからだろうか。
日本は、神代から血の繋がりを持つ天皇が歴史と伝統になっており、いくら藤原家やら源氏、北条、足利、織田信長、徳川家など巨大な権力が出てきても、易姓革命はできない。せいぜい天皇と権威と権力を分割するに止まる。そこが「歴史と伝統」の力であり、万世一系の天皇の国でも重みでもある。
・・・筆者が学んできた日本史の歴史教科書では、小学校・中学校・高校何も、「天皇」に関する記述が極めて最少限度であったように感じます。つまり、単なる歴史の事実として年代、天皇の御名、出来事だけを述べて、「天皇」の歴史的・伝統的・文化的・文学的な意味合いをすべて消去していたかのようです。
昭和二十年八月十五日の大東亜戦争の終結後、米国による日本占領期に、本来の日本の伝統的な皇国史観を消し去られ、所謂マルクス主義歴史観に基づく歴史教育がなされてきた結果、現在の子供達が日本の本当の歴史を知らず、日本の素晴らしさを知らない状況に置かれてしまいました。
これからの日本の未来を担う子供達が、私逹の祖先や先人逹が築いてきた本当の日本の伝統や歴史を知れば、日本の将来に希望や自信を持つことができると考えます。