教科書に載らない歴史上の人物 17 島田叡

ある幼(いとけな)い五歳の塾生の現在のお楽しみは、大河ドラマの「真田丸」です。
ドラマの登場人物の戦国武将の名がすらすらと出てきます。
ひらがなを覚える練習ノートには、「さなだ ゆきむら」「とよとみ ひでより」など並んでいます。

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、子供達の好奇心や興味が学習意欲を高めると考えます。
子供達が歴史に興味を持つと、国語力も上がる良い機会となります。

さて、教科書に載らない歴史上の人物の再掲(加筆)です。

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日本の歴史について正しい知識を持つことは、未来ある子供たちには必要不可欠です。

新しい教育基本法の下での教科書改訂について参議院予算委員会で質疑が行われていました。
義務教育で学ぶ子供たちにとって、教科書が大事であることは言う迄もありません。
その内容や質は誰がどのように決定しているか、多くの国民は知らないというのが現状です。

さて、元気のでる歴史人物講座  日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦氏の記事からの引用(産經新聞平成21.1.28 )です。

県民から敬慕「島守の神」 

 戦後長らく「島守の神」として県民から深く敬慕された人が沖縄県知事、島田叡(あきら)である。

 島田は沖縄戦直前の昭和20年1月末に赴任した。
前知事が戦争を恐れ、任務を放棄したため、急遽(きゅうきょ)、島田の任命となった。
内務大臣から打診されたとき即座に承諾したが、その心境をこう語った。

 「おれが行かなんだら、誰かが行かなならんやないか。おれは死にとうないから、誰か行って死ねとはよう言わん」

「断るわけにはいかんのや。断ったらおれは卑怯(ひきょう)者として外も歩けなくなる」

「牛島(満・沖縄軍司令官)さんから赴任を望まれた。男として名指しされて、断ることはできへんやないか」

 実に立派な覚悟であり決断であった。

着任するや職員を力強く励ました。職員と県民は「この長官は自分たちを捨てて行かない。この人なら最後までついてゆける」と思った。

 牛島と肝胆相照らした島田は、軍に全面協力するとともに、犠牲をできる限り少なくするために、県民の疎開、避難に全力を傾注し、22万の人々を疎開させた。

もし島田が知事でなければ、もっと多くの犠牲が出たといわれる。
しかし、島田は不可抗力とはいえ、県民に多くの犠牲者を出したことを知事の責任として、7月、自決を遂げた。

島田は生涯敬慕した西郷隆盛の「死後慕われる人になれ」という言葉を座右の銘とした。

    島田叡(あきら)    (享年四十三歳)

 

因に、
昭和20(1945)年7月9日、島田の殉職の報に際して、安倍源基内務大臣は、行政史上初の内務大臣賞詞と顕功賞を贈りました。

「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑(*)ト謂フベシ」

(*注:亀鑑きかん 行動の基準となるもの。手本。模範。)

内務大臣が一知事に対して賞詞を授与することは、これが最初で最後の出来事です。

昭和26年6月23日、島田をはじめ戦没県職員468柱を合祀する「島守の塔」が全県民の浄財で建立された。除幕式と慰霊祭には島田美喜子夫人が招かれたそうです。

島田叡の座右の銘。

「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」

島田叡とは

 

 島田叡(あきら)
明治34年(1901)、兵庫県八部郡須磨村(現神戸市須磨区)の開業医・島田五十三郎の長男として生まれました。
旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)、第三高等学校を経て、大正11年(1922)に東京帝国大学法科へ入学。
中学・高校・大学と、野球に熱中し、旧制神戸二中時代に第1回全国中等学校優勝野球大会に出場。
東大時代は野球部のスター選手(外野手)として、また、ラグビー部とも掛け持ちするなど、スポーツマンであったそうです。
この時、学生野球に参加した経歴から、野球殿堂博物館(東京ドーム内)に建立された戦没野球人モニュメントには島田の名前が刻まれています。
東大卒業後、大正14年(1925)に内務省に入省。
主に警察畑を歩み、1945年1月の時点では大阪府内務部長を務めていました。

昭和20年(1945)1月10日、沖縄県知事の打診を受け、即受諾。
各官庁と折衝すると称して東京に頻繁に出張していた前任者の泉守紀には、出張中にも係わらず、香川県知事の辞令が出されました(一説によると、戦火に見舞われること必至の沖縄から逃げ出す為に、運動していたとも言われています)。
その結果、沖縄への米軍上陸が間近とみられ、後任者の人選は難航していました。
沖縄に米軍が上陸すれば、知事の身にも危険が及ぶため、周囲の者はみな止めましたが、島田は「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」として、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛びました。

同年1月31日、島田は赴任するとすぐ、沖縄駐留の第32軍との関係改善に努め、前任者のもとで遅々として進まなかった北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していきました。
同年2月下旬には台湾へ飛び、交渉の末、蓬莱米3000石分の確保に成功。
翌3月に、蓬莱米は那覇に搬入されました。

こうした島田の姿勢により、県民は知事に対し深い信頼の念を抱くようになります。
同年3月に入り空襲が始まると、県庁を首里に移転し、地下壕の中で執務を始めました。
以後、沖縄戦戦局の推移に伴い、島田は壕を転々としながら指揮を執りました。
軍部とは密接な連携を保ちながらも、謙虚な人物であることから、女子職員が井戸や川から水を汲み洗顔を勧めると「命がけの水汲みの苦労を思えば、あだやおろそかに使えないよ」と、いう逸話も残されています。

島田が敢然と沖縄県知事として現地に赴任するに至った背景には、佐賀県警察部長在任中、旧佐賀城西濠端にある龍泰寺で開かれていた「西濠書院」という勉強会に参加したことがきっかけといわれています。
島田は、その書院を主宰していた住職・佐々木雄堂に出会い、『葉隠*』と『南洲翁遺訓*』について学び、その思想に深く感銘を受けたとされます。
後に、佐々木は沖縄に赴任する島田に対して、葉隠と南洲遺訓の2冊を贈り、島田はこの2冊を携えて「敢然と沖縄に赴任する」旨を佐々木に書き送っているそうです。

*『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期(1716年ごろ)に書かれた書物。
肥前国佐賀鍋島藩士・山本常朝が武士としての心得を口述し、それを同藩士田代陣基(つらもと)が筆録しまとめた。
全11巻。
*『南洲翁遺訓』(なんしゅうおういくん)は西郷隆盛の遺訓集である。
遺訓は41条、追加の2条、その他の問答と補遺から成る。

posted by at 15:35  |  塾長ブログ

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