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天才には幸運がつきもの

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

さて、藤原正彦お茶の水女子大名誉教授の「天才には幸運がつきもの」(読売新聞2004年7月19日)という随筆を引用してご紹介します。

天才には幸運がつきもの

梅雨の一日、東海道線を岐阜県の大垣で乗り換え、樽見鉄道で糸貫に向かった。十数名の客を乗せた一両編成の列車は、まもなく市街地を抜け緑そよぐ田園地帯に入った。田植えを終えたばかりの田が折から雨に打たれていた。

二十余分で糸貫についた。ここは世界的な数学者高木貞治(ていじ)の生地である。明治八年にこの地で生まれた博士は、大正中期に類体論と呼ばれた壮麗な理論を打ち立て、世界を驚倒させた。日本は十七世紀に和算の大輪を咲かせたものの、鎖国のせいもありその後ヨーロッパに大きく水を開けられた。維新以来、西洋数学の輸入に忙しかった後進日本に、突然巨星があらわれたのである。独創には自信が要る。博士の途方もない偉業を見て、日本人でもやれる、と勇気付けられた俊秀が数学各分野に次々とあらわれ、その後三十年ほどのうちに日本は数学における一大強国にまでなった。和算で示された日本人の類稀(たぐいまれ)な数学的才能が、再び花を開いたのである。そしてその伝統は現在に続いている。高木貞治はまさに日本数学の父である。

激しい雨の中、糸貫駅から半時間ほど歩くと、富有柿の畑に三方を囲まれて高木家があった。生家は建て直されていたが、戦災で家を焼かれた博士が一年ほど疎開されていたときの住居はそのままだった。

天賦の才能を生まれながらに持った人は多くいるのだろうが、それが開花するにはいくつかの幸運が重ならなければならない。それがなくて埋もれた天才はいくらもいよう。とくに幼い頃の幸運は重要である。博士の幼年期、両親が暇さえあれば絵草紙を見せたり昔話を聞かせたりしたこと。信心深い母親が幼い博士をお寺参りに連れて行ったこと、その為五歳の時分に親鸞聖人の御伝鈔(おでんしょう)を聞き覚え大方暗唱してしまったこと。たまたま隣に住んでいた医者が、博士四歳の頃より漢籍、書道などを教えたこと。これらはこの上ない幸運といえよう。幼い頃に算数や数学を特別に学んだ形跡はない。むしろ読み聞かせとか暗誦、宗教心、といった数学とは無関係と見えることばかりである。この特徴は洋の東西を問わず数学の天才の幼児期によく見られるから、独創性と関係があるのかもしれない。

博士には苦節の十二年間がある。ドイツ留学から帰り博士論文を仕上げた二十八歳から、四十歳に至るまで論文を一つも書いていない。留学時代「日本より五十年進んでいる」と世界一のドイツ数学に圧倒された博士に、独創への自信はまだなかったのではないか。ところが四十歳を目前に勃発した第一次大戦により、ドイツの本や論文が入らなくなった。「学ぶ」から「創る」へと切り換えざるを得なくなった博士は、五年間の激しい集中により大戦後間も無く、ドイツ数学を呑み込んでしまうような類体論を完成した。二十世紀数学の巨匠ヒルベルトが予想した理論を遥かに超えるものだった。生まれたものが余りに画期的だったので、本当に正しいのかどうか自信がなく、高木は「どこか間違えているはず」と証明完成のあと、一ヶ月も間違いを探し続けたという。ヨーロッパ最大の悲劇であった第一次大戦は、高木貞治の、そして日本数学の幸運であった。

 

高木貞治1953頃 Wikipediaより

・・・様々、藤原正彦お茶の水女子大名誉教授の著作を読みましたが、このessay(随筆)は秀逸です。この文字数の中で、幾重にも様々な精髄(せいずい:物事の中でもっと優れていること)を織り込み、品性ある言葉を連ねる技は、文章修業には良いお手本です。藤原正彦先生については当ブログで先述していますからご参照ください、→ https://rashinjyuku.com/post-1084/

そして、

天賦の才能を花開かせる出会い、人の縁。これは、正に「天のとき、地の利、人の和(*)」を活かすことができるか、です。

*孟子『公孫丑章句上』一節の「時不如利。地利不如和」(天の時は地の利に如かず 地の利は人の和に如かず)

・・・「読み聞かせとか暗誦、宗教心」は、子供を教育する親御さんに必須、と常々筆者も考えます。

「読み聞かせ」は、幼児期には「聞く力」を持たせ、「想像力」の火付け役。

「暗誦」は、そらで覚えていることを口に出して言うこと。「表現力」の水先案内。

「宗教心」は、すべての森羅万象に「感謝」する心持ち。「世の為人の為」となる器(うつわ)。

・・・と、愚考しています。

ベーカー艦長

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

教育者としては人口に膾炙(*)していない人物について、渡部昇一上智大学名誉教授(専攻英語文法史。英語学者、歴史家、評論家)がessay(随筆)を書いておられます。渡辺昇一先生著「人生を創る言葉」(致知出版社)から引用してご紹介します。

*じんこうにかいしゃ=かいしゃ《膾 (なます) と炙 (あぶりにく) とが、だれの口にもうまく感じられるところから》人々の話題に上ってもてはやされ、広く知れ渡る

ベーカー艦長

イギリスのロンドンにあった「ウォースター」という名門商船学校の校長を務めた。船を校舎として使っていたため、艦長でもある。

一番汚いところを徹底的にきれいにする

ロンドンのテームズ河口にウォースターの商船学校がある。ここは東郷平八郎元帥が若い頃に勉強したという有名な学校である。この学校の校舎はウォースターという軍艦で、これは五十門の大砲が積める木造の帆前船(ほまえせん)であった。その後、古くなったので、もっと大きな船に変えたけれど、名前は初代のウォースターをそのまま使っている。

明治三十二年に、東京商船学校の高柳教授という人がこの学校を訪ね、校長兼艦長のベーカー大尉に面会した。この人は予備役の海軍大尉で、この学校の出身者である。

ベーカー大尉が高柳教授に尋ねた。

「日本から海事教育の専門家が訪ねて来たのはあなたが初めてだが、何を見に来たのですか?」

「ウォースター商船学校そのものの見学に来たのですよ」

と答えると、

「それなら実際にウォースターではこういう教育をしていると、いうのを見せてあげましょう」

と言って、高柳教授を艦長の部屋に連れて行った。

どこの船でも艦長の部屋には洗面台がある。ベーカー艦長はその洗面台のところへ行って、ガラスのコップを一つ取りそのコップをポケットに入れた。それからそこにあった提灯みたいなものに灯を点けて、教授を船の中に連れて行った。どこへいくのかと思っていると、いくつもの階段をどんどん下りて、ついに木造船のどん底まで行った。艦の一番底には、家の下水のように、上甲板から来る雨水や船底から染み込む汚水が溜まるところがある。艦長はその蓋を開けて、中の水をコップに汲み、また甲板に上がってきて、それを太陽に照らしてみせた。

「これがウォースターの教育です。飲めるくらいの水で、ゴミ一つないでしょう。これがここの教育です。」

禅問答みたいな話だが、船底に溜まった水が飲めるくらい徹底的に船をきれいにするような教育をやっていたということである。高柳教授は非常に感銘を受けて、なるほどこうした教育を受けているから、イギリスに立派な名士が次々と出てくるのだろうと感じ入った。

その話を高柳教授から聞いたある人は、東郷さんのことを思い出した。日清戦争の前に支那の北洋艦隊が日本にやって来たことがある。定遠・鎮遠といった大軍艦が日本の各地で示威運動をして回った。その頃の日本には大きな軍艦はなかったから、見学した誰もが驚いた。

そうした見物人に混じって、東郷さんが平服でたびたび定遠・鎮遠を見に行っていた。あるとき、東郷さんが定遠を見学していると、大砲の砲身に水兵が洗濯したズボンが引っ掛けて乾してあった。それを見た東郷さんはにっこりと笑っていった。

「もう大丈夫だ。シナの艦隊はいつでも潰すことができるな」

東郷さんは砲身に洗濯物が乾してあるのを見て、水兵の訓練が徹底されていないことに気付いたのである。ウォースターで訓練を受けた東郷さんには、それが意味することがよく理解できた。

かって、ベルギーの商船学校の練習船がビスケー湾で原因不明の沈没をしたことがあったという。その原因を調べてみると、船の中に侵入してくる水をポンプでかい出しているうち、船底にゴミの混じった水が溜まっていたため、途中でポンプが効かなくなって沈んでしまったことがわかった。また日本の軍艦の話として聞いたことがあるが、東郷さんの頃はともかく、この前の戦争の頃になると、艦長は船底まで降りていかないのだそうだ。だから、船底を見ると非常に汚かったという。ウォースターのベーカー艦長が船底に案内したのは、良き時代のイギリスの教育は一番汚いところを徹底的にきれいにすることを教えていると知らせるためだったのである。

 

・・・この逸話は様々な示唆に富むものです。船底に溜まる汚水を水垢(みずあか)・bilge(ビルジ)と言いますが、小さなyacht(ヨット)やboat(ボート)でも、常に汲み上げたり、ウエス(雑巾)で拭き取ったりするのは船乗りの基本です。そうしておかなければ、気付かないうちに水垢が増し、あっという間に沈没の危機に陥ることがあるからです。

これは、学問を勉強する際も同様に考えておかなければなりません。

教科書、参考書、問題集、帳面(ノート)、筆記用具等、全て大事に丁寧に扱う心掛けがまず必要です。ノートの書き方は勿論とても重要。文字や数字の大きさや正確さ。あらゆるところに気配り、心配りが必要です。

筆者も学生時代体育会yacht部で、海の上で競技をしていましたが、陸上での点検整備、海上での確認など、生命・身体に関わることですから、しっかりとしなければなりませんでした。海上に出る船舶は、大小に拘らず、生命に関わる以上、点検・整備、指差し確認、ダブル・チェックなどなど、日々行わなければなりません。

本当の学力をつける為には、海上に出る船乗りの如く、生命に直結しているという緊張感を持って学問に勤しむと、日々の努力が身を結ぶと思います。一問ぐらい間違っても、という心掛けでは、あたかも海の上で命を落とす危険に陥ることになりかねません。

ペスタロッチ

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。

世界中で教育界の偉人として取り上げられるヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(Johann Heinrich Pestalozzi)について、渡部昇一上智大学名誉教授(専攻英語文法史。英語学者、歴史家、評論家)がessay(随筆)を書いておられます。引用してご紹介します。

ペスタロッチ

スイスの教育家。親友の死に会って政治家となることを諦め、絶えず子どもと共に生活し、一生を愛の教育に注ぐ。(1746~1827)

 ◎孤児を食に飽かせることは難しい。彼らの胃は空虚であるから。けれど彼らの霊を満たしむることはできる。人性は善であるが故に

スイスの大教育家ペスタロッチは、いつもこういっていた、

「自分は孤児を養うために、自ら乞食のように生きなければならなかった」

スタンツの戦争のために孤児になった少年少女救済に、独力で奮闘していたときのこと。資力もなく後援もない赤貧洗うような彼は、ただ町の人々に寄付を求めるより仕方がなく、朝に夕に町を歩いて、人々の慈悲心に訴えていた。

しかし、同情してくれるものは少ない。一方、孤児の数は日に日に多くなっていく。寄付のお金の代わりに貧しい孤児を連れて帰る日の方が多かった。しかも孤児たちは恐ろしいほどガツガツと食べる。その様子は、胃袋の中に餓えた狼が住んでいるようだった。

「ああ、1日でもかれらに腹一杯食べさせてあげられたら」

とペスタロッチは嘆いた。

しかし、孤児の心は僻(ひが)み、ねじけていた。神のような彼の愛情も、なかなか彼等の心には触れなかった。ペスタロッチはそれを悲しく思ったけれども、自分の愛がまだ足りないから、彼等の心を潤(うるおす)すことができないのだと考えた。そして彼は、孤児達の胃が飢えるよりも、その心が飢えることを恐れ、力の限り愛と誠を注いだ。

ある日、孤児達が隣の街から乞食の少年を何人も連れてきたのを見て、彼は驚いた。どうしたのかと聞いたら、こんな答えが返ってきた。

「先生、この子達も孤児です。可哀想だから連れて来ました。僕たちのパンを半分にして、この子達に食べさせてください」

その可憐な言葉にペスタロッチの目からは熱い涙がとめどなく流れた。

「孤児のお腹を一杯にさせることは難しい。彼等の胃袋は空虚であるから。しかし彼等の霊を満たしてあげることはできる。人の性は善であるが故に」

彼はそう言って小さく賤(いや)しい子ども達の心の奥に愛の気持ちが芽生えたことを神に感謝するのであった。

食べることに賤しく、性格も捻じ曲がってどうしようもないと思っていた孤児達が、もっと貧しい子達を連れて来て、自分達のパンを分けてあげてくれと言った。それを見てペスタロッチは、人の性の善なることを確信したのである。

ペスタロッチは誠心誠意、教育者であったということである。普通の先生に、ペスタロッチのようになれといっても、なれるわけはない。だが、「大教育者といわれる人は、こういう人だったのだ」「子どもというものは、そういう人に触れれば変わるものなのだ」と知ることによって、すぐにペスタロッチの真似はできないにしても、教育の参考にすることはできるのではないかと思う。

ノイホーフで妻アンナと共に子どもたちを教えるペスタロッチ

・・・フランス革命(1789)後の混乱の中で、スイスの片田舎で孤児や貧民の子などの教育に従事したペスタロッチの教育の実践は、主として初等教育段階のものでした。その後、フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フレーベル(Friedrich Wilhelm August Fröbel, 1782~1852)は、ペスタロッチに啓発され、幼稚園(Kindergarten)を創始しました。(ドイツの教育者、幼児教育の祖)

世界史的には、18世紀末位から「幼児教育」が始まっていますが、

驚く無かれ、日本では平安時代末期には「実語教」(本サイトで紹介→https://rashinjyuku.com/post-211/)などの教材が示すように、12世紀末には幼児教育が行われています。およそ六百年も先駆けていることになります。

やはり、教育にも国柄が反映されているように筆者は思います。古来からある日本の良き教育の精髄を活かしながら、必要に応じて日本の伝統・文化にそぐうものを取り入れるという姿勢で良いと考えます。従って、安易に外来語をカタカナ表記にしている文章が氾濫している風潮は、子ども達の国語力を低下させると思います。

「今こそ必要な宗教心」

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、これからの日本を支える子供達にしっかりと学ぶ力をつけていって欲しいと考えます。その為には、日本の伝統・文化・歴史などを踏まえた人間形成が必要です。その一助となるessay(随筆)がありますので引用してご紹介します。

さて、藤原正彦お茶の水女子大名誉教授の「いまこそ必要な宗教心」(読売新聞2004年10月18日)という随筆を引用してご紹介します。

お伊勢参りをした。伊勢神宮には五キロほど隔てて内宮(ないくう)と外宮(げくう)がある。内宮は天照大神(あまてらすおおみかみ)をまつり、外宮は衣食住や産業のお守り豊受大御神(とようけおおみかみ)をまつる。とりあえず内宮へ向かった。

土産物屋の並ぶ通りを抜けると五十鈴(いすゞ)川にかかる大きな橋がある。かってお伊勢参りの人々は、ここで身と心を清めたと言う。なるほどと思わせる清浄な流れである。優雅な曲線を描く川上に目をやると、どこか荘厳な緑の山々が連なっている。橋を渡ると玉砂利の境内である。神域とも言えるここに足を踏み入れた江戸時代の人々は、ありがたさに涙したといわれる。

名所観光なのだろう。旗を立てた団体客が玉砂利に大きな音を立て、運動靴を引き摺る若者達が、冗談口を叩きながら砂煙を立てていた。瞼(まぶた)を拭う者などどこにもいない。往時は五十鈴川で履きかえた新しい草履で、口数も少なく粛々と歩いたのだろう。

境内を埋める鬱蒼(うっそう)たる巨木に圧倒されつつ、正殿へ向かった。皇祖をまつるというからにはさぞかし豪壮なものだろう。と想像していたら、切妻萱(きりずまかや)ぶきの屋根に高床づくりの質素なものだった。宮殿というより弥生時代の立派な倉庫の趣である。一瞬あっけにとられてから、この慎み深い古代美を、華美に走ることなく二千年近くを守り通した日本人の、見識と美意識に感銘を受けた。

高下駄を吐いた神官に導かれ、御前でうやうやしく参拝した、二礼二拍手一礼がきまりだが、歴代天皇も参拝された皇祖神ということでさすがに緊張したのか、礼を一つ余計にしてしまった。冷や汗をかいたが、多い分はていねいに過ぎたということだから、天罰も降るまいと考えた。

江戸時代、お伊勢参りは頗る盛んで、多い年には五百万に達したらしい。当時の人口を考えれば五人に一人である。庶民に旅行は許されなかったが、寺社参拝のためなら許されたから、『東海道中膝栗毛’とうかいどうちゅうひざくりげ)』のように、物見遊山(ものみゆさん)を兼ねてお伊勢参りや善光寺参りに繰り出したらしい。。一生に一度のお参りのため、小額の金を出し合い伊勢講を組み、毎年くじに当たったものが行く、などということをしていた。白衣に菅笠(すげかさ)、筵(むしろ)を背負っての旅立ちだった。参宮者を助けるのは功徳ということで、街道沿いの裕福な商家や寺は食事や宿舎をただで提供したという。なんと美しい日本の風景であろう。

彼らは各地でのお寺参りやお宮参りで、私と同じように無病息災や加護を祈り感謝を捧げたのだろう。彼らの意識に、宗教の違いや教派の違いはなかったろう。神と仏の違いさえなかったのではないか。日本人が神仏に手を合わせるのは、宗教ではなく宗教心である。戦後、公立学校では、宗教教育が禁止されたはずみで、宗教心までが切り捨てられた。神仏に手を合わせるという先祖代々の美風、日本人の心髄と言って良いものが捨てられたのである。何か人間をはるかに超えた存在にひざまずく、という心は物質主義、功利主義、傲慢の氾濫する現代にこそ、求められる。心髄を失った国民は風にそよぐしかない。

 

・・・神宮(じんぐう)とは、三重県伊勢市にある内宮(ないくう)および外宮(げくう)を指します。詳細は神宮のホームページに→https://www.isejingu.or.jp/

内宮の一の鳥居

・・・二千年の歴史を有し、日本人の「心の故郷」と称される伊勢神宮は、日本全国にある8万5千以上もある神社の最高位とされます。

しかし、学校では教えない近現代史として、

先の大戦後昭和20年(1945)12月15日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が日本政府に対して覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」いわゆる神道指令(しんとうしれい)を発しました。

指令を受け、幣原喜重郎内閣は12月28日に、ポツダム勅令で宗教法人令を公布施行し、宗教団体法を廃止して、、宗教団体の国家統制を廃止しました。

つまり、日本占領下において、強制的に日本の法律を廃止させたのでした。その時、神社本庁は指令により神道の信仰が「不当に圧迫された」としましたが、その当時の抵抗は、言わば「蟷螂の斧(とうろうのおの」でしかありません。

葦津 珍彦(あしづ うずひこ・日本の神道家)は神道指令に関する昭和35年(1960)の論文で、「重大な障害がない限り」(”as long as there is no serious obstacle”)占領軍は「被占領地の信仰と慣習に干渉すべきでない」(”should not intervene in the religious faith or customs of an occupied area”)ということがハーグ条約で定められていたとして、日本占領軍による神道の弾圧は国際法からの逸脱だと批判したそうです。(wikipediaからの引用)

 

・・・宗教弾圧によって大打撃を受けた神社は、現在では見事に復活していますが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の呪縛は日本に大きな傷跡を残しています。

 

学ばせるべきは誇り高き日本の文化

長崎市五島町にある難関大学・医学部を目指す就学前教育(プレスクール)学習塾 羅針塾では、「国語力が基本」という「学ぶ」為の大前提があります。その為の方策を工夫しています。「千里の道も一歩から」というように、就学前から素読、片仮名・平仮名の文字から始まり、一歩ずつ進めていきます。

さて、藤原正彦お茶の水女子大名誉教授の「学ばせるべきは誇り高き日本の文化」(産経新聞2004年3月29日)という随筆を引用してご紹介します。小学校の英語教育必修化以前の20年ほど前の文章ですが、根本的な問題点を指摘しています。

(前略)

小学校での英語教育を主張する人の大多数は、英語が不得意の人である。自分ができないのを何かのせいにする、というのは人情である。かっては、文法や読解に重点をおいた従来の英語教育法が悪い、と声高に叫ばれた。その結果、教科書や授業で会話英語が大幅に取り入れられた。そんな教育を受けてきた大学生の英語基礎力の低下は、関係者からよく指摘されることである。しからば他の理由ということで、「小学校から始めなかったことが悪い」となった。

英語力ゼロに近いほとんどの小学校教諭が、児童に一体何を教えるのか。ブラックユーモアとしてなら世界中に受けること必定だが、教えられる子供達は気の毒である。

たいていの日本人が英語をなかなか会得できないのは、日本人にとって英語自体が極端に難しいからという理由に尽きる。何かが悪いからではない。日本にいて英語をマスターしている人はすべて、外国語適性の高い人が膨大な時間と労力をかけた結果である。

英語は文法的にも文化背景からいっても、日本語からあまりに遠い。アメリカ国務省は、外交官などのために外国語学習の難易度をランキングしているが、日本語はアラビア語とならび最難関とされている。この距離ゆえに、日本人にとって英語は根本的に難しいのである。そのうえフィリピン、シンガポール、インドなどと違い、日本で日常生活を送るうえで日本語以外の言語はまったく不必要である。どうしても習得しなければ、という動機も覚悟も湧きにくい。

これらは嘆くべきことではない。外国語が不必要というのは、他のアジア・アフリカ諸国と異なり、かって欧米の植民地にならなかったという栄光の歴史を物語っている。英語から遠いという事実は、世界を席巻しつつあるアングロサクソン文化に対し、自然の防波堤を有するということである。母国語こそが文化の中核だからである。我が国に美しく花開いた稀有の文化、人類の宝石ともいうべきものを、荒波から守る為の神の思し召しと感謝してよい。

英語をマスターすれば国際人になれる、という驚くべき誤解が国民の間に根強いようだ。いうまでもなく国際社会では、一芸に秀でた人はともかく、一般には英語という伝達手段の巧拙ではなく、伝達内容の質で人間は評価される。質の向上には自国の文化や歴史などの教養とそれに基づく見識が必要である。米英で4年余り教えたが、この意味での国際人は私の見るところ、両国でもたかだか数パーセントである。逆にぎこちない英語ながら、国際人として尊敬されている日本人を何人も知っている。

伝達手段の英語をマスターし、かつ自らの内容を豊かにすることは、並の日本人には不可能という辛い現実を素直に国民に伝えねばならない。内容を豊かにするためには、読書を中心とした膨大な知的活動が必要であり、これが膨大な英語習得時間と、並の人間にとって両立しないのである。うまく両立させられる日本人は、千人に一人もいないと考えてよい。

ある統計によると、仕事のうえで英語を必要としている人は18パーセントにすぎない。基本的に英語は、中学校で全員が学んだ後、必要に迫られている人やそんな仕事につきたい人が猛勉強して身につければよいものである。この場合でも教養や見識は英語より上にくる。海外駐在商社マンも日本の文化や歴史を知らないと、然るべき人間と見做されず商談の進まないことがある。

国を挙げてのフィーバーは、滑稽を通り越して醜悪である。為政者は、国際化だ、ボーダーレス化だ、などと軽薄な時流に乗って国民を煽るより、真に誇るべき日本の文化や情緒を子供達にしっかり学ばせ、祖国への自信と誇りを持たせることが肝要と思う。

 

・・・20年ほど前は、小学校への英語導入の可否が喧(かまびす)しく議論されていました。筆者は基本的に英語の小学校導入、その後の必須科目化には反対です。蓋(けだ)し、かって文科省が採った「ゆとり教育」という大愚策の修復も為さず、国語力の充実も図らず、安易に小学生にとって難しい英語科目導入で無理な負担を課すことになるからです。

藤原先生の言われる「英語は文法的にも文化背景からいっても、日本語からあまりに遠い。」ことを、日本の小学生に強いることは、日本全国に英語嫌い、ひいては勉強嫌いを蔓延させるようなものです。

・・・しかしながら、英語が教科化され、成績評価される以上は、それに対応するしかありません。筆者は、就学前教育や小学校低学年時に、しっかり国語力(語彙力、読解力)をつけた子供達から、英語教育に入っていきます。

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