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実語教 その八

世界に類を見ない約六百年にもわたる(平安期から江戸期までの)初学者向け教科書、「実語教」をご紹介してきた最後の第八回です。
「実語教」は、幼少期から音読することによって学ぶ「人生の極秘伝」といっても良いかと思います。

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、音読・筆写を通してしっかりした国語力の基礎を身につけていくことが学問の基礎であると考えています。

さて、「実語教」の最終回、です。

    夫難習易忘

 

<漢文(白文)並びに読み下し文>

夫難習易忘 音声之浮才
 それ習ひ難く忘れ易きは、音声(をんじやう)の浮才。

 又易学難忘 書筆之博芸
 又学び易(やす)く忘れ難きは、書筆の博芸。

 但有食有法 亦有身有命
 但し食有れば法有り。亦(また)身有れば命有り。

 猶不忘農業 必莫廃学文
 猶(なを)農業を忘れざれ。必ず学文を廃することなかれ。

 故末代学者 先可案此書
 故(かるがゆへ)に末代の学者、先づ此(この)書を案ずべし。

 是学問之始 身終勿忘失
 是(これ)学問の始め、身終はるまで忘失することなかれ。

<現代文>

○それ習うに難しく忘れやすきものは、音声の浮才である。

(音声の浮才とは謡、浄瑠璃、小歌、笛、太鼓などの、すべて浮きたる芸を指していう。「浮」とは、物事が上っ面だけの実の無い様。)

○また、学び易く忘れ難いものは、書筆の博芸である。

(書筆の博芸、即ち読み書きは博き芸なり、として昔から幼童に勧められたものである。実際生活上、重要な学芸は「読むこと」と「書くこと」である。これは学ぶことが容易で忘れ難きものである。それ故に、学び難くして忘れ易く、日常生活に然程重要でない「音声の浮才」に励むよりは、実際に必要である「読み書きの博芸」を学ぶことに努むべきである。)

○但し、食が有って法(のり、掟、決まり)がある。また、身が有って命が有る。

(食物が有ってはじめて身を養うことができ、身は命が有ってはじめて立つものである。その根源を知り大切に考えなければならない。食物を以てただ身体を養ふものであると軽く考えてはならない。身体のことはその根本の命のことを深く考えなければならない。これらのことは、学問をすることによってはじめてよく知ることができる。聖人であれば生れながらこれを知ることが出来るが、尋常の人は学問して始めてこれを知るのである。)

○猶、農業を忘れてはならない。必ず学問をやめない様にしなければならない。

(百姓の農業に辛苦することを常に思ひ合せて、学問をすることをやめないようにしなければならない。百姓が農業に辛苦するは我々の食物を造るためである。その辛苦を忘れることなく、常にそれを想ひ起して、学問に努めなければならない。)

○それ故に、後世の学者は、先ずこの書(実語教)を思案しなければならない。

(それ故に、後の世の初心の学者は、この「実語教」に説かんとするところを思案して出精しなければならない。儒教であれ仏教であれ、また百家の書にも学問の道が説いてあるが、初心の輩が、これを会得することは容易でない。この「実語教」は諸家の教訓の肝要の文句を抜萃して説いたのであるから、先づこの書を思案するがよい。)

○是れ学問の始めであり、身終わるまで忘失することがあってはならない。

(この「実語教」に示すところのものを学問の始めとして、日日新たに志を励まして身を終るまでこれを忘失しないようにすべし。)

是れまでの実語教の説くところを纏めると以下の様になります。

人間には智慧がなくてはならない。
身体や財産は一代にして消えていくものであるが、智慧は万代の財である。
そうして智慧は世間万般の事物を知るためのものであるが、是れのみを知ることは俗智といふべきものである。
真実の智慧は自分の相を知ることである。
世間の事物をよく知つていても自分の相を知らざるものは愚人といえる。
人間の寿命は限りあるが故に、幼時に努めて学び、また常に勉励しなければならない。
無論、師匠に就て学ばねはならないが、師匠は聴くものに応えるのみであるから、師匠に従つて常に聴かねばならない。
人には貴賤・貧富の別があるが、それはただ表面の相で、裸一貫になれば人は皆同一のものである。
それ故に、そういう表面の相よりも、内面の心を問題とすべきである。
本来人の心は利己的なものであるから、兄弟といえども和合しないことがある。
この利己の心を離れて慈悲の心を以てすれば何れの人とも和合して四海兄弟となり得るのである。
一切衆生・悉有仏性であるから、その心を以てすれば、君に対しては忠、親に対しては孝、人に対しては敬となり、兄弟に対しては悌となり、同友に対しては信となるのである。

 人間が畜生と異る所以は此の如くに、自ずからその心を修むるところにある。
それ故に、三学を修めて七覚の悟りを得、四等の船に乗りて八苦の海を渡り、八正道を行きて無為涅槃の都に至ることを期せねばならない。
そして、実際には老を敬ひ、幼を愛し、己が身を達せむとすれば先づ他人を達し、人の愁と自らの患いを共にし、善を見ては学び、悪を見ては省み、富貴なりとて驕らず、貧賤なりとて不平を言わず、自から足ることを知るべきである。
また、生活のためには食が与へられ、命が与へられ、天地自然の恩恵の中に生きて居ることを感謝せねばならぬ。
そうして、その業務には忠実に、また学問をしてよく自分の相を知ることに心掛けねばならない。
これ実に学問の始めである。

posted by at 17:30  | 塾長ブログ

実語教 その七

「朱に交われば赤くなる」
「人の振り見て我が振り直せ」
と、子供の頃に母によく聞かされた言葉です。
また、
「友を選ばば 書を読みて 六分の侠気(*) 四分の熱(*)」も同様です。
*侠気=自分の損得を顧みず、弱いもののために力をかす気性。義侠心。
*熱=情熱

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、自ら諺や名言に触れる様指導しております。
さて、実語教の続きです。

    見善者速行

 

<漢文(白文)並びに読み下し文>

 見善者速行 見悪者忽避
 善を見ては速(すみ)やかに行(をこな)へ。悪を見ては忽(たちま)ち避(さ)け。

 好悪者招禍 譬如響応音
 悪を好む者は禍(わざはひ)を招き、譬へば響きの音に応ずるが如し。

 宛如随身影 修善者蒙福
 宛(あたか)も身に影の随(したが)ふが如し。善を修する者は福を蒙(こうむ)る。

 雖冨勿忘貧 或始冨終貧
 冨めりと雖も貧しきを忘ることなかれ。或ひは始め冨みて終はり貧しく、

 雖貴勿忘賤 或先貴後賤
 貴(たつと)しと雖も賤(いや)しきを忘るゝことなかれ。或ひは先に貴く終(のち)に賤し。

<現代文>
(前の数章に於て人に対する道を説き、以下自己を修むるの道を教える)

○善きことを見ては、速やかに行いなさい(実践しなさい)。悪しきことを見ては、即刻(すぐに)避けなさい。
(人の善き行を見ては、我も速かにこれを行い、他の行の悪しきを見てはこれを避けて行はないように努めなければならない。)

○悪を好む者は禍を招く。譬えば響きの音に応ずるが如し。
(悪を好みてなすものは禍を招くことになる。たとえば響が音に応ずるが如くである。)

○善を修する者は福を蒙る。あたかも身に影の随うが如し。
(善い事をするものは福の報が来る。あたかも身に影の添ふが如くである。)

○富むと雖も貧しきを忘るることなかれ。或いは始めに富み終わりに貧しいとも。
(物には盛衰がある。たとえ富みたりとも貧しきことを忘れてはならない。たとえ富裕なりとて、その心が驕奢なればたちまちに貧困に陥ることがある。)

○貴し(*)と雖も賎しき(*)を忘るることなかれ。或いは先に貴く終わりに賎しくとも。
(貴きと雖も賎しき時を忘れてはいけない。或は先きには貴とくして後には賤しくなることがある。)
(貴きときにも賤しきことを忘れず、賤しきときにも貴きを羨まず、足ることを知ることが第一の楽みとせねばならぬ。)

*貴し=身分・品位などが高い。
*賎しき=身分の卑しいこと。

posted by at 14:50  | 塾長ブログ

実語教 その六

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では、どんなテストであれ百点が目標です。
しかし、得点の如何にかかわらず、子供達の努力の結果ですから、次へ繋がる様に確認します。

百点なら、
本人が一番嬉しい。

そして、
共に喜びます。

    我敬他人者

 

<漢文(白文)並びに読み下し文>

我敬他人者 他人亦敬我
  我、他人を敬(うやま)へば、他人亦(また)我を敬ふ。

 己敬人親者 人亦敬己親
  己(おのれ)人の親を敬へば、人亦(また)己(おのれ)が親を敬ふ。

 欲達己身者 先令達他人
  己(おのれ)が身を達せんと欲せば、先づ他人を達せしめよ。

 見他人之愁 即自共可患
  他人の愁いを見ては、即ち自(みづか)ら共に患(うれ)ふべし。

 聞他人之喜 則自共可悦
  他人の喜(よろこ)びを聞いては、則ち自ら共に悦ぶべし。

<現代文>

○我れ他人を敬えば  他人も亦我を敬うものである。

○我れ人の親を敬えば、人も亦我が親を敬ふものである。

○己が身を達せんと欲せば、先づ他人を達せしめよ。
(これは「論語」にある「仁者は己を立てんと欲して人を立つ、己達せんと欲して人を達す』とあるに基づく。)

○他の人の愁(*)を見ては気の毒に思い、共に患い(*)の情を抱くべきである。

*「愁」物寂しさを感じて心が沈む。思い悩む。
*「患い」心配する。心を痛める。嘆き悲しむ。

○他の人の喜び(ごと)を聞いて、共にこれを悦ぶべきである。

(人の愁を見て、共にこれを悲しむことは、人の情として常に起り易いものである。これに反して人の喜びを聞いて、共にこれを悦ぶことは、容易ならぬことである。つまり、人の幸福な様を見てこれを嫉む心が起こりがちである。同慶の心が真に起り来るようになることは容易でない。だからこそ、それを反省し、共に悦べる様に修養すべきである)

posted by at 17:25  | 塾長ブログ

実語教 その五

例え成績優秀でも辛抱すること、忍耐することを身につけていないと、社会に出てから仕事の厳しさに耐えられず、転職する例があります。また、近年問題となっている所謂「ひきこもり」や精神的に不安定となり社会生活が営なめない場合もあります。原因は個別具体的には様々あるとは思います。

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では勉学を通じて忍耐強く取り組む姿勢を身につけて欲しいと考えています。
一つ言えるのは、幼少期からの精神的な鍛錬が如何に大事であるか、ということです。
その意味でも、ご紹介している「実後教」が説く意味合いを反芻する必要性があると思います。

    不交三学友

 

<漢文(白文)並びに読み下し文>

 不交三学友 何遊七覚林
  三学の友に交はらずんば、何ぞ七覚の林に遊ばん。

 不乗四等船 誰渡八苦海
  四等(しとう)の船に乗らずんば、誰(たれ)か八苦の海を渡らん。

 八正道雖広 十悪人不往
  八正(はつしやう)の道は広しと雖も、十悪の人は往(ゆ)かず。

 無為都雖楽 放逸輩不遊
  無為(むゐ)の都は楽しむと雖も、放逸の輩(ともがら)は遊ばず。

 敬老如父母 愛幼如子弟
  老いを敬ふことは父母の如し。幼(いとけな)きを愛することは子弟の如し。

<現代文>

○三学(*)の友に交じわらなければ七覚(*)の林に遊ぷことが出来ない。
(三学の修行が出来ねば七覚の林に入りて悟りを開くことが出来ない。)

*三学とは、仏教を修行するに際して必ず学ぶべき最も基本の修行法。
すなわち戒学(かいがく),定学(じようがく),慧学(えがく)をいう。
戒は禁制の意味で,身心の悪い行を抑制すること,定は心の動きを静め,精神を統一すること,慧は理性により道理をありのままに悟ることである。
これらの三つは互いに不即不離の関係にあり,仏道修行にとってどれが最も大切か,大切でないかという区別はなく,また,その一つは必ず他の二つを伴って完成されるものである。

*七覚とは、仏教で、悟りを得るために役だつ七つの事柄の意。
(1)択法(ちゃくほう)覚支(教えのなかから真実を選び、偽りを捨てること)、
(2)精進(しょうじん)覚支(一心に努力すること)、
(3)喜(き)覚支(真実に生きる喜びをもつこと)、
(4)軽安(きょうあん)覚支(心身をつねに快適に保つこと)、
(5)捨(しゃ)覚支(対象への執着(しゅうじゃく)を捨てること)、
(6)定(じょう)覚支(精神統一をすること)、
(7)念(ねん)覚支(智慧(ちえ)を念ずること)の七つをいう。

○四等(*)の船に乗らざれば八苦(*)の海を渡ることが出来ない。
(心の世界を例えて海といい、その海を渡るには四等の船に乗らねばならない)

*四等(しとう)とは、 仏教において説かれる徳目の一つ。
あまねく世界に限りなく及ぼされるべき四つの心。慈、悲、喜、捨の四つをさす。
慈とは他者への慈しみ、悲とは他者へのいたわり、喜とは他者の喜びを己(おの)が喜びとすること、捨とはいっさいの感情を離れて他者のすべてを平等にみること。

*八苦とは、人間の八つの苦しみ。
生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦(おんぞうえく)・求不得苦(ぐふとくく)・五陰盛苦(ごおんじょうく)を加えたもの。
愛別離苦(愛するものと別離する苦)
怨憎会苦(憎むものに会遇する苦)
求不得苦(求めるものが得られない苦)
五盛陰苦(五種の根幹存在よりなる輪廻的存在の苦)

○八正道(*)を正しく修むることによりて涅槃の悟りが開かれるその道はまことに広いのであるが、十悪(*)の人はその道に往くことができない。

*八正道とは、涅槃に達するための八つの正しい実践行のこと。
原始仏教以来説かれる仏教の代表的な修行方法。
八つとは,
(1)正見(正しいものの見方),
(2)正思惟(正しい思考),
(3)正語(いつわりのない言葉),
(4)正業(正しい行為),
(5)正命(正しい職業),
(6)正精進(正しい努力),
(7)正念(正しい集中力),
(8)正定(正しい精神統一)
釈迦は,それまでインドで行われていた苦行を否定し,苦行主義にも快楽主義にも走らない,中なる生き方,すなわち中道を主張したが,その具体的内容として説かれたのがこの八正道である。

*十悪とは、身・口・意の三業(さんごう)がつくる十種の罪悪。
殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪淫・妄語・綺語(きご)・悪口(あっく)・両舌・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・邪見の総称。

○無為(*)の都はこの世の様に苦楽がなく真に楽しいところであるが、放逸にして心の儘に振舞って悪事をつくるものはそこへ行つて遊ぶことは出来ない。

*無為とは、因果関係に支配される世界を超えて、絶対に生滅変化することのないもの。
すなわち、涅槃(ねはん)・真如(しんによ)といった仏教の絶対的真理のこと。
無為の都というのは涅槃界のこと。

(不交三学友より放逸輩不遊までは、仏教の所説をその儘に挙げて、人人がその魂を養育するための教えを示しています。三学、七覚、四等、八苦、八正道、十悪、無為都など、仏教の所説の重要なるものが挙げてあります。)

○お年寄りには我が父母の如くに敬まい、幼少のものには我が子弟の如くに愛せよ。

posted by at 17:22  | 塾長ブログ

実語教 その四

長崎市五島町の羅針塾 学習塾・幼児教室では諺、四字熟語など普段から親しむ様にしていますが、
今日はまさに「天高く馬肥ゆる秋」

久し振りに中腹から金比羅山に登りました。何度も登ったことのある親しみのある山です。
然程高くないのですが、眺望は素晴らしい。
東の雲仙普賢岳、西の五島灘、南の野母半島、北の大村湾、と三百六十度楽しめます。
頂上まで登り金比羅宮に参拝すると、何百年にも渡り、先人達が登山道を整備して下さっていることが良く分かります。
一つ一つの石段にも魂が篭っているかの様です。

天晴れな空の下、金比羅山から望む長崎港

 

<漢文(白文)並びに読み下し文>

 父母如天地
  父母は天地の如く、

 師君如日月 親族譬如葦
  師君は日月(じつげつ)の如し。親族は譬(たと)へば葦(あし)の如し。

 夫妻猶如瓦 父母孝朝夕
  夫妻は猶(なを)瓦(かはら)の如し。父母には朝夕(てうせき)に孝せよ。

 師君仕昼夜 交友勿諍事
  師君には昼夜に仕へよ。友に交はつて諍(あらそ)ふ事なかれ。

 己兄尽礼敬 己弟致愛顧
  己(おのれ)が兄には礼敬(れいけい)を尽くし、己(おのれ)が弟(をとゝ)には愛顧を致せ。

 人而無智者 不異於木石
  人として智無きは、木石に異ならず。

 人而無孝者 不異於畜生
  人として孝無きは、畜生に異ならず。

<現代文>

父母は天地の如く 師と君は日月(太陽や月)の如し。
(父母は私を産み給う。天地が万物を生ずるに比ぶべき存在である。師と君は恭敬・恩愛の心を以て下に臨むものであり、人を教え導き、陽と陰を表象する太陽と月の様な存在である。)

親族は葦の(群がり生ずるが)如くに多い。夫妻は(父母・師君に比すれば、卑しきこと)瓦に比すべし。

父母には朝夕に孝行せよ(孝とはよく父母に仕へまつること。朝夕油断することなく孝を尽くしなさい)。
師と君には昼夜厭うことなく仕えなさい。
友とは争いや諍いをすること勿れ。

自分から(我より)兄たる人には礼を尽して敬まいなさい。
自分から(我より)弟たる人には愛しみ(慈しみ)顧みなさい。

人として智恵がなければ無情の木石に異ならない(人たる道を知らねば木石と異ならないではないか)。

人(万物の霊にして、忠孝の道は正しかるべきものである)として忠孝の道を欠くものは、畜生(犬や猫などの動物)と異なることはない。

posted by at 16:03  | 塾長ブログ
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