長崎市江戸町にある難関大学・医学部を目指す幼児教室・学習塾 羅針塾では、将来の日本を支える人になる為に、志を持って自ら学んで行く塾生を育てていきたいと考えています。
致知の特集「人を育てる」(2026年5月号)に掲載されている、体験的教育論「我が矯正人生」ーーSとの出会いが教えてくれたこと、元刑務官・第42代横浜刑務所長 亀井史巠(ふみひろ)氏のお話です。これを一部抜粋しつつご紹介します。今回は昭和40(1965)年ごろ以降の時代背景を踏まえてのお話です。
亀井史巠氏は広島市に居住する元刑務官。85歳。38年間の矯正人生を通して多くの犯罪者を更生へと導いてきた。ここで紹介するSもその一人である。処遇に携わった亀井氏自身が「生きた鬼」と形容し、「生きた鬼に出会ったのは後にも先にもない」と語るほど狂暴だったSは、亀井氏との出会いによって驚くほどの変化を遂げていく。亀井氏はどのような思いでSに向き合ったのか。命を賭した氏の実話は、人を育てる上での要諦を見事に説き尽くすものである。
(中略)
自分の躬行実践以外方法はない 注(自分から実際に行うこと)
私は多くの受刑者の処遇に当たってきましたが、とりわけ心に残っているのが、Sという私よりも5歳年下の男のことです。
昭和40年4月10日の午後10時30分頃、A刑務支所拘置監から「死刑判決を受けた被告人が逃走した。逃走者捜索のため、警備応援の準備をして待機せよ」との第一報が入りました。これがSとの出会いの始まりです。
Sはこの夜、A及びF市内で強盗など3件の重罪事件を起こし地域住民を震え上がらせましたが、翌朝6時過ぎ、ダブダブの学ランに身を包み学生に扮して逃走中のところを捜索に当たっていた警察官に見破られ、多数の警察官によって捕縛されました。
護送車両が拘置所に到着すると、初めに機動隊の服装をした警察官8名が下車し、乗降口の両サイドに4名ずつ分かれて人垣をつくり、その間を後ろ手錠姿のSが警察官に連行されてきました。私は、その護送警備体制の厳重な様子から、Sの尋常ではない凶暴性を感じ取ったのでした。
入所手続き中、Sは殺気立って全身を激しく揺さぶり、警察官の制止を振りほどいて立ち上がると、我々に唾を吐きかけ、続いて体当たりを仕掛けようとして、これを制止されると辺り構わず周囲にある物を蹴散らしながら「なめるなー!」と怒鳴り散らす狂乱状態となりました。
この時の怒り狂ったSの怒髪天を衝く形相はまさに鬼、猛獣そのものでした。これがSとの出会いであり、生きた鬼に出会ったのは後にも先にもありません。
期せずしてSの処遇は私が受け持つことになりました。普通、これだけの凶悪犯であれば、手錠を掛けて房に入れておくことだけを考えるものです。しかし、私は刑務官として人を甦らせるにはどうすべきかを自問自答し続けました。
その結果、刑務官は法に基づいて職務を執行することが大前提ではあるものの、相手の心の動きをしっかりと掴み、どのような人間でも同じ人として惻隠の心を持って接し、魂を込めて処遇に当たらねばならないと考えました。
自分の罪を心から悔い、被害者に謝罪の気持ちを持たないままでは、Sにとって何のための人生だったか分かりません。刑死するまでの残り少ない人生を、この広島拘置所で過ごさなくてはいけないSが、まずはどうしたら心を開いてくれるかを四六時中考え続けました。そして、誰より私自身が自らの意思で実際に行動してみる躬行実践以外の方法はないとの結論に達したのです。
・・・刑務所内での矯正。それも死刑の執行を待つのみの限られた時間の中で、如何に心を開いていくか、という命題です。犯罪を犯して刑務所に収監された人には、一般の人には理解し難い背景があります。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、そこに至るまでの人生に不幸の芽がある場合には、同情すべきことが隠されています。
凄絶を極めるSの養育環境
Sの心情が安定したため早速、逃走事件の取り調べが集中的に行われるようになり、それまで分からなかったSの養育状況が次第に明らかになっていきました。
Sは、女子受刑者の収容施設であったB刑務支所に収容されていた母親から出生し、監獄法に基づく携帯乳児として1年間、この刑務所内で母親に育てられたのです。
その後、祖母に引き取られて養育されましたが、生活苦から学校に行くことができず、十分な教育を受ける機会には恵まれませんでした。こうした養育状況からSは文盲となり、社会常識が乏しいまま年齢を重ね、正業にも就けず、年老いた祖母を養うために盗みなどを繰り返し、少年院や刑務所を出入りすることになりました。
しかし、全く罪の意識を感じることはなく、自分を捕らえ裁く側の人間を逆恨みするばかりで、起こす犯罪も次第に凶悪化していきました。検事や裁判官をいつか自らの手で殺害する。Sの頭の中はその一念だったのです。
そのSに私ができることは毎日30〜40分の運動の時間の一部を利用して、人間としての心を持たせる働きかけを行うことでした。
ちょうどSが運動に参加を許されるようになったばかりの頃のことです。私が大きな声で「S、おはよう」と挨拶したところ「おはようございます」と返事が来ました。「よい返事をしたな」と話すと、「そりゃ、先生が大きな声でおはよう言うてくれたけんよ」と照れ臭そうに答えます。
私は彼の挨拶を褒めながら地面に「挨拶」という文字を書き、「これは心を開いて相手に近づくという意味だ」と説明しました。その上で「何かしてもらったら、必ずありがとうございますと感謝の気持ちを表すのだよ」と伝えました。
興味を示して聞き入るSに「私の話についてこれるか」と質問すると「お願いします」の力強い返事。心を開いた、との感触を得た私は、部下の刑務官と一緒に文盲のSに読み書きを教えるようになりました。せめて本や新聞が普通に読めるようにしてあげたいと、毎日の運動時間中、地面に漢字を書き示しながら読み方や意味を教える毎日がスタートしたのです。
特に、「人」や「命」という字を教える時は、命の尊さや人間の生きる意味を理解させ、人としての道を外さないように生きることが大事だと考えました。
「人という字は、2人の人間がお互いに寄り添い、支え合っている形を表している。また、人の間と書いて人間という。これは人は人々の間でしか生きられないことを意味している。人間は人を幸せにするために、尊い命を授かってこの世に生まれているのだから、どんな人とでも仲よくし、支え合って生き抜くことが大切なのだよ」
私がSに話した言葉の多くは、私が幼少期に両親に教えられたものでしたが、Sの表情は日に日に明るくなり、運動時間に私の姿を見つけると、まるで小犬が飼い主にじゃれつくように喜んで寄ってくるのです。
ある時、S自らの戒めと被害者の供養のために「般若心経」の写経と読経を勧め、それを日課とするようになったこと、さらに自分の罪深さを自覚し被害者の命日には必ず教誨師の読経を願い出るようになったのも、忘れ得ぬ出来事です。その頃のSの行状は模範囚のように落ちついていました。
・・・このお話の中には、様々なエピソードがありますが、すべて掲載することが出来ませんから、「致知」をぜひ手に取って頂きたいものです。
結果として、Sさんに対する死刑が執行されます。そして、亀井さんへの遺書が手渡れます。
「まず驚いたのは、あの文盲だったSが書いたのかと思うほど、美しい毛筆の文字と洗練された文章だったことです。その遺書は被害者への謝罪から始まっており、「自分の教養の無さと、身勝手から、取り返しのつかない苦しみを与えてしまいました。私を八つ裂きにされても、お怒りは収まらないと思いますが、どうかお許し下さい」と悲痛なまでの悔悟の念が綴られていました。
「毎日、毎日亀井先生に会うのが楽しみで、今日は何を教えてもらえるのか、どんな話を聞かせて貰えるのかと、わくわくしながら運動に出ていました。夜、部屋ではお父さんがいたら、あんな優しいお父さんだっただろうかと考え、夢を膨らませて、生きることの幸せを実感していました。
亀井先生。本当にありがとうございました。世の中でもっと早く先生にお会いしていたら、私の人生は変わっていたでしょう。沢山の心の宝を頂いたのにもって行けず、お先に旅立つことをお許しください」と、本心から感謝の気持ちを書いてくれていました。
最後に、「祖母ちゃんに、養育してくれた感謝の気持ちとして、『体をいたわり、長生きしてください』」……ここまで涙を我慢して読んできましたが、次の一行で一気に涙が溢れ出ました。






